河北潟の再生と保全

NPO法人河北潟湖沼研究所 高橋 久

<日本環境法律家連盟発行『環境と正義』第46号―48号(2001-2002)より転載>

第一回

 三回連載の機会をいただいたので、各回ごとに河北潟の現在、過去、未来に焦点をあてて、河北潟の再生というテーマで話を進めたい。第一回目は、河北潟の現在の環境問題について述べるが、まず最初に、河北潟の環境の特徴と、河北潟における環境問題への私の考え方について触れたい。

河北潟の特徴と環境問題
 河北潟はもともと遠浅の内湾が、縄文時代に形成された砂丘によって区切られてできた海跡湖である。能登半島の付け根の部分に位置し、かつては東西四キロメートル、南北八キロメートルの大きさであった。国営干拓事業により、約三分の一の大きさの淡水湖に変わるまでは、日本海から入り込む海水が混ざる汽水湖であった。河北潟はもともと、平野部の湖、河口域の湖そして汽水湖という特徴を持っている。また、比較的温暖な地域の低湿地である。これらのことからは、基本的に富栄養の水域であること、またヨシなどの湿性植生が豊かであることを示している。また、汽水湖であることからは、シジミやボラ、白魚などの汽水生態系に由来する魚介類の宝庫であったということができる。また豊かでありながらも塩分によりある程度制限された湖岸植生をもち、それは独特の湖岸風景を形成していたものと思われる。
 一方、河北潟の形成の契機となっている内灘砂丘も重要な環境要素である。砂質の土壌には植生はあまり発達しなかったが、独特の環境条件は特定の種にとっての重要な生息環境であった。湿地と砂丘といった異なる環境要素をあわせもった地形、それが河北潟である。こうした独特の環境条件の中で培われていった、潟縁の人たちのくらしもひとつの文化として、また環境の一要素として重要なものであった。潟漁や舟入川(張りめぐらされた水路)など潟と人との生活との関わりも、河北潟の環境問題を考える上で欠かすことができない視点である。
上記のように河北潟は独特の環境要素を持った湿地であるとともに、干拓という大改変を経験した湖である。私は河北潟湖沼研究所というNPOに所属し、河北潟の環境問題に取り組んでいるが、我々の活動の中では保全とともに再生が重要なテーマとなっている。河北潟においてどのような状態を再生したらよいのか、現状で保全すべき対象はないのか、再生とは単に過去の状態を復活させることなのか、再生が同時に破壊につながらないのか、といったことを常に考えてきた。結論としては、我々は河北潟において新しい再生をめざすべきであると考るに至っている。こうした視点は、全国で開発に対して行われている湿地保全の運動とは違和感があるかも知れない。しかし、いずれの湿地においても当面の保全が達成された際には考えなければならない問題であるとも思える。そうした点から河北潟を参考例としてお読みいただければ幸いである。

河北潟干拓と環境問題
 現在の河北潟が抱えている環境問題の源泉には二つあり、そのひとつは、一九六三年に始まった国営河北潟干拓事業である。河北潟は、五千年の歴史のなかで堆積と小規模干拓によって徐々に小さくなっていったが、こうした変化により河北潟の環境が大きく変わることはなかった。ところが、国営干拓事業は、潟総面積二、二四八ヘクタールのうち一、三五六ヘクタールを干拓し、農地一、〇七九ヘクタールを造成するとともに、沿岸耕地三、二七五ヘクタールの排水改良を図るもので、潟の中だけでなく周辺地域を含めた大事業であり、これにより河北潟と周辺の水域環境は大きく変容した。まず、潟自体が極端に小さくなり淡水化された。湖岸は堤防が築かれ人工化された。周辺の水路や湿地は整備された。このように周辺を含む環境の大きな変化は河北潟地域に様々な環境問題をもたらした。
 まず、潟面積の減少と淡水化は、水質の悪化に直接つながっている。かつてのシジミやフジツボ、ゴカイ、ボラなどの汽水性の生物は姿を消し、水の汚れを食べる動物は少なくなった。流域からの負荷の増加もあり、河北潟の富栄養化が一気に進行した。現在の透明度は四〇センチメートル程度しかない。
また、河北潟干拓に伴って河北潟の湖岸は、矢板やアスファルトによる護岸が施され、ほぼ一〇〇パーセント人工化された。これによって湖岸の自然植生が減少した。また、効率だけを考えた単調で直線的な護岸が造られたことによって、波が激しくぶつかる湖岸には現在でも水草が定着していない。
水草の多様性の消失も重要な問題である。干拓前の河北潟には、湖岸に幅広い水草帯が広がり、一方周辺の水路にもオニバスなどのたくさんの水草が生息していたと考えられる。しかし現在ではオニバスは絶滅し、湖岸を被っていたアサザも現在ではわずかな群落が三か所確認できるのみである。
このように、豊かな汽水湖を消滅させてまで実施された干拓事業であるが、代償として手に入れた土地は、現在に至るまで十分には活用されていない。まだ河北潟干拓事業が完了していない一九七〇年に政府の減反政策が始まり、河北潟は水田耕作を行うことのできない干拓地となった。畑作と酪農が推奨されたが、入植者の不足があった。また入植したものの畑作に慣れてない河北潟周辺の農家にとって、干拓地農業はきわめて辛いものであった。離農者も相次いだ。
 また、河北潟はもともと水鳥の生息環境で、冬場にはカモ類が多くやってくる。晩秋に播種された小麦や牧草は、カモが飛来するころ食べ頃の大きさに育っている。ハス田のレンコンの芽は、春先の貴重な食料である。よって河北潟での野生生物による農作物の被害は深刻である。

最近の変化
 このような河北潟において、私たちが活動を始めたのは入植開始から十数年が経った頃である。そのころの干拓地と河北潟は、いわば捨てられた湖と陸といった状態だった。水は汚れ、干拓地は荒れ、人の訪れることのない湖岸にはゴミが捨てられていた。
 我々は「河北潟を考える会」の活動、そして「河北潟湖沼研究所」の設立を通じて、河北潟の現状と改善についてアピールしてきた。行政やマスコミも河北潟のことを取り上げるようになり、湖岸のクリーン作戦や水質浄化のための実験施設などもつくられた。干拓地の新たな利用形態が探られるようになり、新たな入植者も出てきた。ブラックバスのブームは問題をはらみながらも、河北潟の活性化に一役買っている。酪農家の経営するアイスクリームスタンドは休日ともなると長い行列ができるほど盛況である。現在でも干拓地農業の厳しい状況は変わらないが、この数年の間に河北潟と干拓地を訪れる人たちは急増し、人の眼が増えたことでゴミの不法投棄は減った。地元の小学校の総合学習の時間に河北潟が取り上げられるようになり、次代の地域を担う子供達にも、河北潟への関心は高くなっている。
 近年はこのように河北潟が見直されてきた時期でもあるが、一方で干拓後形成されてきた二次的自然やそこに住んでいた野生生物にっとては、受難の時代を迎えている。九二年から始まった、大規模な湛水防除事業や住宅団地の造成など新たな環境整備事業が進んだ。河北潟の環境問題の二つめの源泉がここにある。干拓事業は、河北潟の性格を変えたもので決定的な変化であったが、同時に最近十年の河北潟と周辺の変容は、比較的緩やかであるが、過去の河北潟の面影を完全に失わせる変化であり、何とか生き残ってきた野生生物や風景の息の根を止めるものとなりつつある。
 河北潟周辺の農地は近年急速に宅地化が進み、地方自治体による大規模な団地造成も進められている。宅地化にともなって周辺の環境整備もおこなわれることとなり、古い形態を保つ小規模河川が次々と消滅したり人工化されている。
 河北潟干拓事業に伴って整備された周辺の水田の地盤沈下が進んだため、これらの水田では最近になって新たな圃場整備が進んでいる。比較的湿った水田、植生を伴う様々な形状をもつ用・排水路、休耕田などは比較的良好な水生生物の生息環境となっているが、現在大規模に盛土が施され、水路もコンクリートに改修されつつある。
 干拓地では酪農家を中心に新たな離農者が出現する可能性も高く、農地が荒れることによって、セイタカアワダチソウやヨシの単純な群落が増え、植生の単純化が進む可能性もある。また、逆に空いた土地に大規模な農業経営が行われることによる懸念もある。個人経営であれば適当に多様性が維持されるが、産業化が進めば環境の多様性は失われる可能性もある。
 河北潟の発展と保全は相反するようで結びついている。これは共存あるいは共生という言葉に置き換えることができる。私たちは過去の河北潟と湖岸の人々の暮らしから学ぶことを考えた。

第二回

かつての水環境と水郷の暮らし
 干拓前の河北潟地域は、潟とともに周辺に様々な形態の水辺環境が存在し、水生生物にとって良好な環境であったと思われる。江戸時代頃までは、フゴ(不湖)と呼ばれる沼地が河北潟の湖岸や周辺に存在した。これは河北潟が堆積によりだんだんと小さくなっていく過程で取り残された窪地で、泥が深いため十分に開発できなかった土地である。一方、人が入りにくいことから野生生物にとっては貴重な環境であったと思われる。
 潟に流れ込む河口には、流路が枝分かれしてデルタを構成し、堆積した泥湿地の上には広いヨシ原が存在していた。現在の河北潟には確認できないが、干拓以前は浮葉植物と沈水植物が湖に張り出すように繁茂していた。舟が誤って水草帯に入ると藻やヒシが櫓にからみつくため、脱出するのに苦労したという昔話を聞いたことがある。かつて河北潟は蓮湖と呼ばれていたが、この蓮とはオニバスのことで、潟を代表する水草であった。その他に黄色の花を付けるアサザやコウホネが生育していたようである。
 潟周辺に網羅されていた水路にもオニバスが繁茂していて、よく通行の邪魔になったなどの話などが残っている。また、現在でも昔の水路が一部に残っているが、水草やメダカなどが生息しており、当時の状況を伝えている。水路は小さな水域を必要とする動植物にとっての水域ネットワークとして重要だったと思われる。潟周辺の多くの田んぼは湿田で、これらの湿田は渡り途中のシギ・チドリ類の格好の採餌環境であったと考えられる。
 このように河北潟の多様な水環境は、水生生物の生息場所を提供していたが、人々の暮らしにとってもまた潟や水辺は切り離せない重要なものであった。既に五千年前河北潟周辺に住む縄文人は潟や周辺の川から貝類を採集していたことが宇ノ気町にある上山田貝塚の出土品などからわかっている。江戸時代には、河北潟周辺の水域には「御止場」と呼ばれる魚類の繁殖保護地が設けられ、漁業資源が大切に守られていた。明治以降は、河北潟は重要な漁場となり、集落ごとに独特の漁法が発達し、向粟崎の袋網や大根布の狩曳網など潟ではさまざまな光景が展開されていた。河北潟ではフナなどの淡水魚に加えてスズキ、ボラ、サヨリ、シラウオ、ヤマトシジミなど汽水性の魚の漁獲もあり、一九六〇年頃までは、シジミだけでも一万五千トンの水揚げを誇っていた。女性たちはこの魚介類を金沢や、遠くは富山県砺波方面にまで売り歩いた。
 花園や才田など東岸から南岸の集落は、潟周辺に湿田を持っていた。湿田は水没しやすいため、舟の上から稲刈りをおこなった。刈り取った稲を積み上げた舟が水路を行き来した。潟縁にはもともと道はなく、周辺の集落では家と家、家と田を結ぶ小舟のとおる水路が縦横に走っていた。各家はヨシで屋根を葺いた独特の舟小屋をもっていた。舟小屋は河北潟の湖岸に独自の風景をつくっていた。
 河北潟の周辺にすむ子どもたちにとっては河北潟は遊び場で、ほとんどの男子は泳ぎや舟の操縦に長けていた。小学校の高学年ともなると、子どもたちだけで潟の中央にまで舟を漕ぎだして遊んでいたという。現在五十歳くらいまでの人は、子どものころ潟でフナ釣りやシジミ採りをした経験を持っているようである。

干拓事業の経緯
 これまでみてきたように河北潟は多様な水環境を有し、湖畔の人々の暮らしを支えていいたように思える。ところが、河北潟干拓に至る経過を見ると、むしろ住民が積極的に干拓を希望したことがわかる。なぜ、それまでの潟縁での暮らしを捨て、干拓賛成に踏み切ったのだろうか。
 もともと河北潟周辺の集落、とくに現在の内灘町の集落は、ほとんど水田をもっておらず、潟や沿岸で獲れた魚を金沢市や津幡町の農家の米と交換して暮らしをたてていた。河北潟の湖岸を埋め立て水田を得ることは、周辺の集落にとって長い間の悲願でもあった。一九五〇年代には、内灘海岸への米軍の試射場建設問題が持ち上がるが、大反対運動を繰り広げる当時の内灘村に対して、受け入れの見返り事業として、内灘砂丘地の開発と河北潟干拓がほのめかされている。
 干拓事業には漁民の漁業権放棄が前提となるが、干拓に伴う漁業補償交渉はきわめてスムーズに進み、交渉開始から二ヶ月で決着した。単位面積あたりでは全国一といわれた漁獲量を誇っていた淡水漁業権はあっさりと放棄された。この背景には大正時代頃からの河北潟漁の不振とともに、主要な漁が出稼ぎ漁や沿岸漁へ移行しつつあったことがあるようだ。同時に河北潟干拓が計画された頃は、食料事情が好転し始め、国会レベルでの国営干拓の見直し論も見られるようになっていた時期だけに、干拓事業をできるだけ早く着工させてしまいたいという意向がはたらいたのであろう。
 内灘町の清水武彦氏は、「河北潟の汚れが気になるようになったのは昭和三〇年代の中頃であった」、「児童会で「河北潟の汚れがひどくなったので、泳がないようにしよう」という取り決めをした」と述べている(河北潟湖沼研究所通信一巻四号)。住民が潟から疎遠になっていったことも干拓の推進と無縁でないと思われる。当時のことを聞き取り調査する中で、「当時は、忙しすぎて潟のことを気にしている余裕はなかった」といったことを良く耳にした。戦後の復興から高度成長へのうねりのなかで住民が潟を返りみることのないまま干拓が進んでいったようである。
 当時の時代背景の中では干拓の問題点が十分には考慮されず、計画よりわずか十年で減反への転換により、干拓そのものの意味が失われるような事態が訪れることなど考えなかったのは仕方がないことかも知れない。しかし当時の状況において、起こる事態を予測することは可能であったと思われる。結局、干拓計画はきわめて短期的な見通しのもとで進められ、湖岸の人々は干拓をおおむね歓迎し、潟の価値を失っても、新しく生まれる水田の価値を選んだ。その選択は五千年以上も培ってきた潟と人との関係をあっさりと断ち切ってしまった。

再生の視点
 かつて優れた水郷があったこととともに、現在必ずしも干拓地が生かされていないことを思うと、河北潟の昔の姿を再生したいと考えるのは当然のことだろう。我々も研究を始めた当初は、河北潟の再汽水化をテーマにしていた。しかし干拓地を再び汽水湖に戻すという考えは、人為的に大規模な環境造成をするという点で、干拓事業と似た発想でもある。現時点で大規模な汽水湖再生の事例はなく、人為的な環境改変による目標達成が可能かどうか、注意深く議論する必要がある。
 実際には大規模な土木事業をおこなっても、元の汽水湖の状態に戻すことは困難であると思われる。流域の負荷は増大しており、海水を入れることだけでは水質の改善は必ずしも望めない。周辺環境も大きく変化した。もともと河北潟が不変のものではない。河北潟は埋まっていく運命にある湖で、しかもかなり寿命の短い湖である。変化することを前提に考える必要がある。さらに、地形だけを元に戻せば良いことではなく、人との関係を加えた視点が必要である。
 また、新しく生まれた環境に、保全すべき優れた要素はないのか、ということを十分に考慮しなければならない。例えば、我々がシンボルマークとして使っているタカのチュウヒも、干拓により出現した広大な草原にやってきた河北潟の新しい住人である。河北潟の優れた自然の代表であるチュウヒも、干拓がなければ河北潟で繁殖することはなかったのである。
 持続的な地域社会をつくる視点からは、干拓によって生まれた農地を生かすことを考えるべきであろう。世界の農業や食糧事情を考慮するなら、今後日本において食糧危機が起こらないとは言い切れない。我々は、未利用地を含む広大な耕地の可能性とともに、依然豊かな水環境をもち、さらに草原という要素が加わった多様性のある土地として河北潟を評価し、そこでどのような共存が可能かを考える必要がある。
 河北潟の歴史からは、河北潟の人々は地の利を巧みに生かして水郷の暮らしをつくりあげてきたことがわかる。何よりも河北潟は生産の場であったことが人々と潟との関係をつくってきた。潟自体が利用されながら維持されてきた環境であり、その中で野生生物も生活していた。そして現在干拓地は生産の場として位置づけられている。
 干拓により失われたものは、人と潟との関係、持続的な暮らしと自然との共生であり、これらを将来の河北潟に位置づけていくことが河北潟の再生にはかかせないことが明瞭になってきた。潟と人との関係の再生である。

第三回

これまで述べてきたように、私の考える河北潟の新しい「再生」とは、河北潟を干拓前の状態に戻すことではなく、つくられた干拓地やその他の現在の条件の中で、人と潟との関係、持続的な暮らしと自然との共生を取り戻すことである。私自身は、新しい「再生」という視点を得たことで、それまで現状の打開が難しいと思っていた河北潟に、さまざまな可能性をみつけることができた。

将来構想の作成と発表
 河北潟湖沼研究所生物委員会は、九九年に「河北潟将来構想」を発表した。これは、河北潟の現在の問題点と過去の姿を比較して、河北潟の将来の利用や環境のあり方を提案したものである。生物学を専門とするものが中心になっているため、野生生物の保護や自然環境の保全に重点が置かれた内容となっているが、さまざまなアイディアはそれなりに注目を集めた。その後、幾つかの提案は自治体や民間団体から受け入れられ実施された。また同様の考えに立つ行政機関が独自に実施したことにより実現した案もあった。「構想」の一部が実現に至った背景には、作成にあたって以下のような点を考慮したことがあると思っている。
まず第一に、構想を練る前に河北潟の自然環境の現状を正確に把握することに努めたことが挙げられる。当初、現在の河北潟の評価にあたって、本来の自然環境はすでに失われてしまっていて、もとの汽水湖に戻すのが、もっとも河北潟の再生にとって良いことであるという意見もあった。しかし、我々は、河北潟の現状を注意深く調べるなかで、干拓・淡水湖化により失われたものもあるが、干拓事業により新しく生じた環境の中にも優れた点があることを知った。前にも書いたが、たとえば希少猛禽類のチュウヒは、干拓後にできたヨシ原の環境に新しく入ってきた鳥であることもわかった。
 第二に河北潟が農地であることを重視した。実際、河北潟の野生生物の生息環境は、農地であることにより維持されている側面が大きい。農地であることにより大規模開発から守られてきたし、農地であることによって野生生物の生息できる余地もある。ときに農業と野生生物は対立するが、そうした緊張関係を持続しながらも、どこかで協調していくことが、農業にとっても、農作物を食べまたやすらぎを受けている周辺の住民にとっても大切なのではないかと考え、基本的に干拓地が農地であることを前提に構想をつくった。
 第三に再生の目標を、「潟と生活の接点を取り戻すこと」とした。そして明治から干拓前頃までの時代を、潟と生活の接点があった時代、そして人々が潟の豊かさを享受していた時代と考えた。そして、その当時の自然条件のみでなく住民の暮らしにも注目して、河北潟の再生の参考とすることを考えた。現在の異なった自然条件のもとで、当時達成されていた潟と住民の生活の接点を、どうしたら取り戻せるのかを念頭に置きながら構想を練った。
第四に実現可能な案とすることに重点を置いた。河北潟の現在の形を大きく変えるのではなく、実現可能な小規模の改良による環境の改善ということを重視した。

将来構想の内容
 我々が発表した将来構想はおおきく四つの柱より構成されている。その一つは人工化された水辺の修復である。河北潟干拓によって失われたもののうち最も重大な環境要素は、多様な自然の水辺である。現在多くの水辺が人工化されているが、とくに干拓地と湖を区切る直線的な護岸は、波が強く当たるため植生が育たず、生物の生息環境としては適していない。ここに、自然に泥が堆積し、またワンドが形成されるように、湖に突き出た堤防や消波ブロックを設置することを提案した。また、干拓地内の幹線排水路や未耕作地、潟周辺部の農業用水路や休耕田を利用した水辺ビオトープの創設を提案した。これらの提案には行政機関なども関心を示し、実際に自治体が水辺ビオトープの造成をおこなうことになったり、護岸改修において水際の自然回復を試みようとする動きも感じられるようになってきた。
 二つめは、現在でも残っている良好な水辺環境を保全エリアとして指定し、人為的な改変を規制するとともに、野生生物の生息環境として現状を保全することを提案した。われられは水辺を中心に五つのエリアを想定したが、そのうちのひとつ、東部承水路の広いヨシ原はチュウヒやツバメなどが、ねぐらとして利用している重要なエリアである。昨年、河北潟のバス釣りグループが我々の提案を受け入れて、このエリアを自主的な立入禁止区域として指定した。
 三つめは、野生生物に配慮した農業形態・農地整備の提案である。干拓地の農地を、例えば収穫後から次の作付けまでの間を野生生物に解放することによって、干拓地を野生生物との共存可能な場所とすることができるといった提案や、干拓地のノネズミの被害をチュウヒやノスリ、アオサギなどの野鳥によって制御することなど、野生生物間の食物連鎖をうまく利用する害獣・害虫のコントロールを提案した。河北潟干拓地では、県農林部が昨冬より、干拓地内の麦や牧草のカモ類による被害を抑えるために、干拓地内にある試験栽培用の水田の二番穂を利用した「おとり池」作戦を実施したが、こうした発想は我々の構想の考え方とも合致するものである。
 四つめは、干拓地に湿性林と環境教育施設を建設する提案である。現在の河北潟には、マツの植林を除いて樹林がほとんどない。しかし以前の河北潟周辺にはハンノキ・ヤナギ類などから成る湿地林が広がっていたものと思われる。こうした環境を干拓地の一部に復活させ、低地湿性林生態系を蘇らせることを提案した。湿性林内には観察舎を設け、低地湿性林の生態を学習できる施設とすることを提案した。また、干拓地内に河北潟の自然を紹介するセンター(エコステーション)を建設し、河北潟の変遷や生息している生物、環境保全と農業の関係などを学べるようにすることを提案した。このセンターの提案については行政機関からも関心をもたれている。提案が実現する日もそう遠くないかも知れない。
 その他にも、さまざまな提案をおこなった。たとえば治水対策と環境保全との両立についての提案もおこなった。森下川河口には中州があり、これまで土砂が堆積してくるとこの中州は、治水上の理由から定期的に浚渫されてきた。しかしこの中州は、国際的な希少種であるクロツラヘラサギが休息地に利用するなど、鳥類や砂地を生息環境とする土壌動物の重要な生息環境である。同時にこの中州は、堆積が進行すると植生が成長して別の環境に変わることが予想されるものである。中洲の一部を残した浚渫を実施することにより、砂州の現状を保つことができるという、環境保全と治水対策の両立が可能となる提案をおこなった。
 河北潟干拓地内にはまっすぐな長い道路が何本か通っているが、この道路をエコロード化する提案や、人の近づくことできない沖合に、野鳥の楽園となる直径二〇メートルほどの人工島を造成する案なども盛り込んでいる。これらは、土建設業者にも歓迎されるかもしれない提案であるが、人為的改変が進んだ河北潟にとっては人工的であれ最小限の施設を付加することにより、野生生物の生息環境としての質を向上させることができる場合もあると思われる。

河北潟から見えるもの
 私は河北潟の再生の取り組みを通じて、人々の生活を組み込んだ湿地保全のひとつの地域モデルがつくれないものかと愚考している。もともと多くの低地の湿地は、歴史的に見ても現状においても、人との関係を除外しては考えられないものである。また、湿地の運命として遷移という問題があり、湿地の保全自体に人が深く関わっている場合が多い。河北潟は干拓地であり、農地さらには私有地であるといった特殊性をもつが、人との関わりの強さという点では、日本の低地の湿地の多くが共通することである。もし河北潟の保全・再生の課題を、生産や利用といったことを加味することにより達成することができれば、他の地域にも応用可能なアイディアを提供することができるかも知れない。
 自然と人間の持続的な関係の回復とは、まさに二一世紀の課題であり、私の考えはとくに独自性のあることでもなく、多くの地域の人々も既に取り組んでいる課題であろうと思う。他の地域との情報交換も重視したいと思っている。
 政府の大型公共事業としておこなわれた干拓事業であり、同じ間違いを繰り返さないため、責任を明確にすることは重要であろう。しかし、河北潟の環境を守り育ててきたのは、ずっと住民であったし、結局は環境の修復・再生は住民の力に頼っておこなわなければならないだろう。

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