自然再生最前線6.河北潟の再生と保全

NPO法人河北潟湖沼研究所 理事 高橋 久

<(社)農村環境整備センター発行『農村と環境』第19号(2003)掲載論文の原文>

1.河北潟の歴史・現状・再生の視点

 全国で自然再生事業が始まっている。大規模干拓という経緯のなかで貴重な汽水湖が失われた河北潟においても、かつての豊かな環境の再生が望まれる。しかし河北潟の再生を考える上では、いくつもの複雑な問題が存在する。そこでまず総論として、河北潟の干拓前後と最近の環境の変化をみながら、河北潟における再生の視点について考えたい。

(1)河北潟の自然環境の特徴と変遷

 河北潟(図1)は、もともと遠浅の内湾が縄文時代に形成された砂丘によって区切られてできた海跡湖である。能登半島の付け根に位置し、かつては東西4km、南北8kmの汽水湖であった。当時の河北潟には多様な水辺環境が存在していた。潟自体は大きな開放水面であるとともに、北部の淡水域から南西部の高塩分汽水域まで幅広い塩分濃度のなかに、純淡水魚から海水魚まで30種以上の多様な魚類が生息していた1)。河北潟には、大小10以上の河川が流入しているが、それらの河口域には三角州が発達し、湖岸は全体的に複雑な形状を呈し、ヨシやガマなどの広い抽水植物帯を形成していた(図2)。
 河北潟の水深はおおむね2mほどで、湖面には浮葉植物が拡がり湖底には潟の中央部まで沈水植物帯が発達していた(図3)。潟と集落、集落と集落を結ぶ水路が網の目のように張り巡らされ、河北潟と周辺の地域の水域ネットワークを形成していた。舟入川と呼ばれるこれらの水路には、オニバスやミズオアイなど、いまでは消滅したりほとんどみられなくなった植物が生育していた。周辺の水田は大雨が降ると冠水する湿田であった。また河北潟が堆積により縮小していく過程の残存水面である、フゴ(不湖)などの沼地もみられた2)。
 潟と人々の生活は密接に結びついていた。湖岸に生えるヨシは舟小屋の屋根葺きに使われ、舟は潟漁に使用されるとともに、主な移動手段でもあった(図4)。潟漁は地域ごとにその方法と漁獲量が細かく定められており、多様な漁業が潟で営まれていた(図5)。
 汽水域の高い生物生産性は良く知られるところであるが、河北潟も、シジミやボラなどの汽水生態系に由来する魚介類の宝庫であった。とくにシジミの生産量は多く、1960年頃までは、15,000tの水揚げを誇っていた。

   
図1.現在の河北潟   図2.干拓前の河北潟の湖岸。1960年頃の森本川河口域。河口のデルタが発達している。農地の中を縦横に走る線は水路   図3.干拓前(大正時代頃)の水草の分布。「八田の歴史」(1960年発行)の掲載図より改変

 

(2)干拓前後の変化

 1963年に始まった河北潟国営干拓事業は、潟総面積2,248haのうち1,356haを干拓し、農地1,079haを造成するとともに、沿岸耕地3,275haの排水改良を図るものであった3)。国営干拓事業については、よく湖面の干拓だけが強調されがちだが、実際には河北潟周辺の土地改良事業の方が対象とする面積は大きく、湖岸の改変など多様な水域環境の喪失につながる要素を含んでいた。潟だけでなく周辺地域を含めた大規模な土木事業がおこなわれ、これにより河北潟の水郷としての姿は大きく変容した。湖岸は全て直線のアスファルトで護岸された堤防となり、陸と潟は断絶された(図6)。排水路の整備により湿地は縮小し、舟入川は自動車道路に取って代わられた。河道はまっすぐで単調なものに改造された。このようにして、広大な干拓地と、周辺の乾いた水田地帯がつくられた。
 河北潟干拓事業は当初は水田の造成を目的として始められたものであったが、1970年の国の農業政策転換により、一部レンコン田を含む普通畑と酪農団地として造成がおこなわれた。1970年の干陸から80年の農地造成の開始までの10年間は、干拓地の大部分は放置されていた。最初は所々に水溜まりの残る平坦地に低茎の草地が出現し、やがてケイヌビエ群落となり、そしてヤナギやニセアカシアの低木を含むヨシ群落が形成された4)。80年から農地が整備され徐々に耕作が開始されたが、増反・入植者が足りず多くの未配分地が残ったため、一度耕起された圃場にやがてまたヨシ原が点在するようになった。
 干拓後、生業としての潟漁はなくなり、河北潟は漁業の場から農業の場となった。多様な水域の消失は、河北潟からさまざまな野生生物の生息場所を奪う甚大な影響をもたらした。同時に干拓地が多くの未利用地の草原を抱える広大な畑地となったことは、平野の大部分が水田環境である本州においては稀な、まとまりのある低地草原を創出した。干拓直後の河北潟は、多くの草原性の野鳥の生息地として、また猛禽類チュウヒの本州唯一の繁殖地として、全国に名を轟かせることとなった。低湿地の中の広い高茎草原は、新たに進出してきたさまざまな生物の重要な生息環境となった。

 

 

図4.かつての河北潟の湖岸と舟小屋(撮影:清水武彦氏)   図5.干拓前に営まれていた潟漁の様子(撮影:清水武彦氏)

 

(3)最近の変化

 多様な水域環境を喪失したものの、河北潟地域の多くの水生生物は、干拓後も細々とではあるが消滅することなく生き残っていた。それらを支えていたのは、周辺に残された用水路であり、極端に土盛りされていない湿った水田、そして、湖岸線に沿って残された東西の承水路の存在であった。しかし今、それらが生物の生息空間としての機能を失いつつある。92年から始まった湛水防除事業と最近の大規模な圃場整備は、水田の大規模な盛土と排水路の三面コンクリート化を重要な内容としていた(図7)。多くの土水路や湿田がこの数年間で失われた。その中で、クロモやササバモ、ミズアオイといった植物が河北潟の周辺から消失していった。河北潟周辺の宅地化もそのことに拍車をかけた。地方自治体による大規模な団地造成などと同時におこなわれた周辺の環境整備のなかで、古い形態を保つ小規模河川が次々と消滅したり人工化された。
 こうした中で、干拓地は草原の野生生物の生息環境を維持していた。しかし最近、貸し付けという形であるが営農が軌道に乗りつつある状況のなかで草原は減少しつつある。3万羽とも言われるツバメのねぐらとなる草地が2003年には刈り取られてしまい、干拓地内のツバメのねぐらが消失したことは象徴的な出来事であった。
 近年の河北潟の変遷において、大きな構造の改変が河北潟干拓事業であるとすると、近年の圃場整備事業と湛水防除事業は、河北潟水域の改変の総仕上げとも言うべきもので、細部に渡って徹底的に改変されていることが特徴である。最近数年間の河北潟と周辺の変容は、地図が大きく塗り変わった干拓事業とくらべると一見緩やかであるが、残存していた過去の河北潟の面影を完全に失わせる変化であり、わずかに生き残ってきた野生生物や風景の息の根を止めるものとなりつつある。同時に、干拓地の生態的機能が質的に劣化したことは、河北潟地域全体の動物群集へ甚大な影響をもたらしているものと思われる。

 

 
図6.干拓時につくられたアスファルト護岸堤防   図7.最近整備されているコンクリートの農業排水路

 

(4)河北潟における再生の視点

 このように現在の河北潟では、かつての水辺環境はほぼ消滅し、新たに生まれた草地環境も劣化している。河北潟の野生生物群集は極めて危機的な状況におかれており、何らかの積極的な保全措置や再生事業が求められる。
 河北潟は豊かな汽水湖であった。自然再生を掲げるのであれば、まず最初に汽水湖に戻すことが念頭に浮かぶ。しかし河北潟は、もとの湖面が既に農業生産の場となり、淡水化された潟の水は農業用水として利用されている。したがって単純にみると、干拓地の農業と汽水湖の再生をめざすことは競合する。潟の復元と干拓地との関係について考える上で、現在の河北潟地域の自然環境の破壊が、単に干拓地造成のみによって起こったのではないという側面をみる必要がある。また、現在干拓地に生息する野生生物についての評価を正確に行う必要がある。そして再生にあたっては、干拓地の中に生まれた自然を積極的に評価しながら、かつての河北潟にあった多様な水環境の要素を取り戻していく方向性が求められる。河北潟の再生においては、潟と干拓地という相対立するようにみえる二つの土地において、それぞれ最も自然が豊かであった時代をモデルとすべきである。水辺においては干拓前の多様な環境要素、干拓地においては特異な低地草原の維持ということが考えられる。
 同時に、住民の生活と自然環境との接点に注目することが必要と思われる。潟はもともと人の生活空間と重なる場所であったこと、その環境の維持においては常に人為の関与があったということを考慮すべきである。河北潟周辺の貝塚の調査からは、河北潟で縄文人が狩猟・採取をおこなっていたことがわかっている5)。江戸時代頃には小規模干拓と水路の整備が盛んにおこなわれていた2)。近年においては、潟漁が地域の重要な産業であり、潟縁のヨシは重要な資源であった。ヨシの適切な利用や計画的な漁業が、潟縁の植生や潟の魚類群集の多様性を支えていた可能性がある。利用される中で形成されてきたのが河北潟の自然であったと思われる。とくに、人工物である湿田や水路を生息場所とするシギ類などの鳥類や水草にとっては、その生存にとって人為の重要性は明瞭である。干拓地はもともと人工環境であり、農地であることが前提として存在している土地であり、農地の中に稀有な経緯を経て成立した野生生物の生息環境である。
 このように、潟と人との関係性は、もともと河北潟の自然の形成に不可欠なものであり、将来の再生においても、地域の人々の接点を重視しなければ目的を達成できない可能性がある。

2.保全、再生に関わる個別の課題

 次に各論として、河北潟の再生にとって重要な、農業と野生生物の共存という問題、最近顕著になってきた外来種の問題、そして地域住民による自然再生への取り組みについて述べる。

(1)河北潟における農業と野生生物の共存

 河北潟の再生においては、農業と野生生物の関係を無視することはできない。そこで、野生生物と干拓地や周辺の農業との関係について、これまでにおこなわれている調査・研究等に基づいて考察したい。

a.野生生物の生息状況
 山本ら6)によると、河北潟と干拓地において、2000年から2002年の間に166種の鳥類が確認されている。種構成では、石川県版レッドリストに掲載される種のうち51.8%にあたる29種が確認され、環境省レッドリストの15.6%、IUCN(世界自然保護連合)のレッドリストの5種が確認された。河北潟は、国内的にも国際的にも重要な鳥類の生息環境であるこということができる。同時に、水鳥とともに湿地で生活する陸鳥が多く確認された。これらの種は、潟や水際の干潟、抽水植物帯にも生息するが、かなりの割合で、干拓地の畑地や草地、干拓地内の広い湿地である蓮根田、周辺の湿った水田に依存しているものと思われる。河北潟地域は、広大な畑作の干拓地と周辺の水田地帯が存在することにより、国際的にも重要ともいえる生物相を有している場所であるといえる。
 河北潟の植物については、永坂7)によってまとめられている。河北潟の本湖には抽水植物を除いて水草は少なく、多くの種は西部承水路や、周辺の圃場の農業用水路から確認されている。また、永坂8)は、1995年に東西の承水路を含む河北潟の湖岸線に沿って水生植物の生育状況を詳細に調査したが、浮葉植物と沈水植物については、潟本体では2種のみの確認であり、一方、幅の狭い西部承水路では8種が確認されている。我々の調査でも、ササバモやクロモなどのいくかの種は周辺の圃場のみから確認されている(未発表データ)。圃場とその中にある水路及び西部承水路が、現在の河北潟において残された水生植物の主な生育環境となっている。このように、野生生物の保全と農業を切り離して考えることはできない。

b.干拓地の現状と野生生物による被害
 河北潟干拓地の野生生物と農業の共生を考えるにあたり、まずは農業の現状を把握する必要がある。河北潟干拓地では、86年から本格営農が始まり、現在では麦と大豆、牧草、そさい類、果樹、花卉などが栽培されている。しかし、干拓地は、必ずしも農業に有効に利用されておらず、多くの未耕作地は野生生物に重要なハビタットを提供している。
 我々は、1999年6月と11月に河北潟干拓地において、個々の圃場の作付け状況の調査を実施した9)。表1に示すように、牧草地および麦と大豆の二毛作地が干拓地の約半分の面積を占めていた。一方で、干拓地内に約2割の未耕作地が確認され、それらは干拓地内に点在していた(図8)。また、その多くは高茎草原となっていた。この草地の存在様式は干拓地の環境の多様性を維持し、野生生物の繁殖場所や避難場所を確保する上では望ましい形であると思われる。河北潟干拓地は、チュウヒやノスリ、チョウゲンボウ、コミミズクなどが多く生息し、現在でも草原性の猛禽類の宝庫となっている。これらの種の生息には未耕作地と耕作地の両方が必要で、たとえばチュウヒは繁殖場所としてヨシ原を利用し、餌場として耕作地を利用している。畑にはハタネズミが生息し、これらはノスリやチュウヒなどの格好の餌となっている。一方で、このようにしてノネズミの個体数調節に猛禽類が関与していると考えられる。
 河北潟干拓地が農業を主体としてさらに野生生物の生息環境である状態、つまり農業と自然が共生する状態を保つうえでは、耕作地と未耕作地がバランス良く存在していることが重要であると思われるが、この点については今後もっと研究されるべきである。
 干拓地では、畑作においては、麦と大豆の二毛作がおこなわれているが、大豆は病害虫により、麦はカモ類による食害により思ったように収益が上がっていない。
 安定した収益のめどが立っているのは、レンコン田であるが、ここでも水鳥による食害が深刻な問題として取り上げられている。これまでカモ類による麦の食害の状況は調べられているが10)、干拓地に飛来するカモ類の数や行動についてはまとまった報告はない。そこで我々は、2002年に干拓地と周辺農地のカモ類の出現状況を調査した11)。
 カモ類は干拓地の広域で確認され、その多くは群れを形成しており、200羽を越える群れもあった。群れが確認された主な環境はレンコン田と麦畑であった。干拓地周辺の水田でもカモ類は確認されたが、中央を分断するように通っている広域農道の近辺には野鳥はみられず、カモ類は、広域農道の周辺をさけ狭い範囲の中に潜んでいた。本来、水田地帯はカモ類の好適な採食環境であるが、実際には交通量の多い車道と周辺住宅地によって、安心して採食できるような環境は少なく、危険の多い水田の代替地として、干拓地の広大な麦や牧草地が餌場となっているとも考えられた。近年の干拓地周辺の水田環境の劣化は、さらに多数のカモ類を干拓地へ誘導している可能性も考えられる。

 

 
図8.干拓地における未利用地の分布   表1.1999年の干拓地における各栽培区分ごとの面積

 

c.周辺の水田と野生生物
 河北潟周辺の水田地帯は、現在の河北潟の多くの水生生物を支える重要な環境であるが、近年著しく状況が悪化している。1992年より始まった県営湛水防除事業は、潟周辺地域の湛水被害を解消するため、排水路や排水機場を整備し、河北潟への排水を円滑かつ強制的におこなうものであるが、排水経路の完全な人工化、自然流下の消失、潟と周辺水域との連続性の遮断といった問題を含んでいる。両岸に矢板を打ち上部をコンクリートマットで被う水路の改修により、垂直となった水際にはフナやコイが往来するものの、サギ類は餌をとることができない。また、水深が1m以上に掘り下げられている場合が多く水草が生育できないため、魚類の産卵環境や稚魚の生育環境は失われている。排水機場は水門で閉じられていて、脇からポンプで吸い上げられ排水されるため、魚類の遡上、降下が阻害されている。降雨時以外は水の動きが止まり、水質悪化の原因ともなっている。
 湛水防除事業と並行しておこなわれている圃場整備事業は、一区画を拡げるとともに現状の圃場に盛土をして高い位置に水田を造成するもので、湛水防除事業の目的とは競合する事業である。建設残土が1m以上も盛土された圃場も多く、かつて河北潟周辺のどこにも存在していなかった水域の高低差が生まれ、圃場と排水路の連続性が失われた。同時に農業用水路のコンクリート化も進み、水路にすむ生物だけでなく、サギ類などの大型の鳥類も生息が難しい状況となっている。我々は、河北潟の周辺においてサギ類の水田の利用状況を調査している。その一環として2003年の2月から3月には、河北潟の周辺の圃場約50haにおいてサギ類の採餌行動を観察したが、多くのサギは休息のためだけに圃場を利用していた。アオサギが休息していた時間は観察時間のうちの約55%で、積極的に探餌している時間は35%程度であった。水田にはいくつかの水路があったが、餌を捕っていたのは1か所のみ残る土水路だけであった(図9)。

d.農業との共存
 カモ類の被害に対しての対策はこれまで、徹底的な排除を前提とする防鳥網が前提であったが、最近はカモ類の習性を利用した共存を前提とした対策をとる傾向がみられるようになった。その一つとして、干拓地につくられた実験水田を利用したカモのおとり池作戦が2000年より実施されている。これは実験水田の二番穂を残したうえで水を張り、牧草地や麦畑のパトロールによりカモ類を追い出し、水田を餌場とするようにし向ける作戦で、一定の成果が上がっている。
 河北潟干拓地においては、1980年代後半からノネズミの農作物食害が問題となり、1988年からは、ヘリコプターによる毒餌ペレットの散布がおこなわれてきた4)。しかし、十分な効果が確認されないことや、野鳥など河北潟の自然環境への影響を考慮して、2003年からは散布を中止した。同時に県農林事務所により、ノネズミの生息状況の実態調査や、自然環境へ配慮という観点も加えた防除法の検討が始められている。
 河北潟湖沼研究所は、2003年2月に住民や干拓地農家を招いて、干拓地利用についてのワークショップを開催した。このなかでの中心的意見は、干拓地は農業をおこなう場として捉えるべきであり、同時に安心できる食の生産や環境保全型農業を展開することにより、消費者との連携を深め、農業の展望を導き出すべきであるということであった。干拓地農業を発展させるためにも、農業と野生生物の共存は重要なテーマであると思われる。

図9.昔の舟入川の面影を残す水路。付近ではサギ類が採餌できる唯一の水路となっている

 

(2)外来種の侵略と在来種の保全

 河北潟において外来種問題は深刻である。特に水草や魚類などの水生生物にとって外来種は脅威であり、水域生態系の再生に取り組む中でいくつかの問題と直面している。

a.侵略する植物と駆逐される在来種の例−西部承水路
 現在西部承水路は、アサザやトチカガミなど希少性の高い水生植物の河北潟地域における数少ない生育地であるが、近年外来種のホテイアオイとチクゴスズメノヒエの急激な増加が問題となっている。
ホテイアオイはこれまで、多雪地帯である北陸地方においては越冬の報告がなく、定着は起こらないであろうと考えられていたが、西部承水路では1998年頃から毎年のように生育が確認されるようになった。一方、チクゴスズメノヒエはホテイアオイに先行して侵入していたが、近年河北潟周辺でよく目に付くようになった。こうしたことから我々は、2002年に西部承水路の水草の調査を実施した。そして、95年に実施していた同様の調査と比較して、西部承水路の水草のおかれている状況を分析した12)。
 浮葉植物では、95年にはおもにアサザとヒシが優占していた。チクゴスズメノヒエはわずかに確認されたのみで、ホテイアオイはまったく確認されなかった。ところが、2002年には、これに代わってチクゴスズメノヒエとホテイアオイが優占する傾向がみられ、上流部の約700mの区間が、ホテイアオイの単一群落で埋め尽くされた。また下流部では、チクゴスズメノヒエが大小の島状の群落を形成して広範囲に分布しているのが確認された(図10)。一方、アサザは点在して僅かにみられるだけとなった。沈水植物では、95年にはクロモとマツモが広範囲に確認されたが、2002年には、マツモはいくつかの地点で確認されたものの、クロモはまったく確認できなかった。このように、かつて希少種を含む多様な在来種から構成されていたと思われる西部承水路の水生植物相は、急速に消滅しつつある。
 西部承水路の水生植物相の保全のためには、ホテイアオイの越冬個体の継続的除去と、かつての溝さらいや泥上げに該当する事柄としての部分的な浚渫によるチクゴスズメノヒエの除去と陸化の防止、個々の希少植物群落の保護、それから独自に水質改善の取り組みを強めること、これらを総合的、相互補足的に実施することが求められる。

b.再生事業が外来種のビオトープをつくってしまう可能性
 野田ら13)によると、河北潟西部承水路では、外来種であるアカミミガメが繁殖している可能性が高い。一方、長く日本に定着しているクサガメは、西部承水路では、近年繁殖が成功していない可能性が考えられた。アカミミガメがクサガメを駆逐している直接的な証拠はないが、少なくとも現在の河北潟は、クサガメよりアカミミガメが定着しやすい状態であることが推測できる。
 このアカミミガメとアメリカザリガニ、オオクチバス、ウシガエルは、河北潟において他種に影響を与えると思われる外来水生動物の代表である。詳しい調査データが存在していないが、在来種へ何らかのインパクトを与えているものと考えられる。たとえば、我々は、ビオトープ造成にあたってアメリカザリガニが侵入した結果、アサザとミズアオイが消滅した経験を持っている。野外実験でも、移植したアサザが一晩で全てアメリカザリガニによって切られたのを確認している。
 水辺の自然再生事業の中で、こうした外来種がいち早く定着し、本来の河北潟の生物の定着を阻害する可能性がある。事業にあたっては、外来種の影響を十分に検討する必要があるとともに、住民の参加などきめ細かい管理ができる体制を検討する必要がある。

 

図10.ホテイアオイとチクゴスズメノヒエに被われる西部承水路(写真左:ホテイアオイ、右:チクゴスズメノヒエ)

 

(3)河北潟の自然環境の将来−再生の手法、住民の関わり

 河北潟地域の自然環境のおかれている現状や歴史、変遷からは、自然環境の保全・再生を展望するときに、具体的な手法の提案とともに、住民の自然環境への積極的な関与が重要であることが考えられる。

a.水辺の保全と再生のあり方
 我々は、1999年に「河北潟将来構想」を発表し、この中で水辺の保全と再生についていくかの提案をおこなった14)。その一つは人工化された水辺の修復と消滅した多様な水辺環境の復元である。干拓地と湖を区切る直線的な護岸は、波が強く当たるため植生が育たない。ここに、自然に泥が堆積しワンドが形成されるように、湖に突き出た堤防や消波ブロックを設置することを提案した(図11)。また、干拓地内の幹線排水路や未耕作地、潟周辺部の農業用水路や休耕田を利用した水辺ビオトープの創設等を提案した。その後、実際に自治体が水辺ビオトープの造成をおこなうことになったり(図12)、護岸改修において水際の自然回復を試みようとする動きが出てきた(図13)。また、現在でも残っている良好な水辺環境を保全エリアとして指定し、人為的な改変を規制するとともに、野生生物の生息環境として現状を保全することを提案した。こうしたことに対しては河北潟のバス釣りグループが自主的な立入禁止区域つくるなどの動きが出ている。
 その他にも、水田を冬の間、野鳥の利用しやすい条件におくことなどや、河口の中州の保全など、さまざまな提案をおこなった。このように、大規模な改変を提案するのではなく、基本的には個別の提案をおこない、その一つひとつを実現することによって、徐々に河北潟の水辺の再生を押し進めるのが妥当で最も効果的な多様な水辺の再生の手法であると思われる。

b.住民との協働
 河北潟の歴史をみると、河北潟の人々は地の利を巧みに生かして水郷の暮らしをつくりあげてきたことがわかる。そして何よりも河北潟が生産の場であったことが、人々と潟との関係をつくってきた。潟自体が利用されながら維持されてきた環境であり、その中で野生生物も生活していた。そして現在もまた、干拓地は生産の場として位置づけられている。将来の河北潟の自然再生にあたっては、土木事業による環境の改善とともに、人が自然と関わり合うことによってもたらされるさまざまな効果を積極的に評価することが重要であろう。
 最近になって河北地域では、住民による環境保全の運動が盛んになってきた。2002年には、地域の町会や漁協、ボランティア組織、環境NPOなど23団体が参加して「河北潟自然再生協議会」が結成された。比較的まとまりがある地域住民の運動体として、自然観察や水質調査、ゴミ拾いなどの活動とともに、河北潟の再生に向けた行政との協働を模索している。そうした中で、一部の公共土木事業において、自然環境に配慮した対策が両者の協力関係の中で進められている。
この団体の設立総会で採択された「河北潟の自然再生構想」には、団体の求める河北潟の自然再生の方向として、「共生可能な潟との関係、地域の重要な産業である農業と自然再生事業の融和による持続的な地域の発展、未来へ莫大な負債を残さない発展方向を展望することが重要である」と述べている。また個別課題では、「住民が主人公、自らが守る河北潟を目指し持続的に活動しよう」というタイトルで、「かつては存在した住民と潟との共生関係を再構築することは、住民が主体となる河北潟の自然再生をおこなう上で、最も重要なデーマの一つである」と述べている。
 こうした観点は、大規模に改変された地域での住民の自然再生の取り組みの方向性として、ひとつのモデルを提供しているのではないだろうか。

 

   
図11.「河北潟将来構想」で提案した護岸の改修案   図12.県が造成したアサザ保全のためのビオトープ   図13.県の護岸改修事業の中で採用された多自然型堤防

 

引用文献

1)高橋 久(1997)河北潟の魚類相の変遷.telos17:1-6
2)川 良雄(編)(1960)八田の歴史.八田公民館.504P
3)北國新聞社編集局(1985)レポート河北潟干拓.北國新聞社.247P
4)大串龍一(2002)河北潟干拓地における小型哺乳類相とその生息量の長期変動(1976年−1994年).河北潟総合研究5:1-15
5)平口哲夫(2001)縄文時代の河北潟.河北潟総合研究4:29-32
6)山本浩伸・桑原和之・平田豊治・竹田伸一・中川富男(2003)河北潟の鳥類相,2000−2002年.我孫子市鳥の博物館調査研究報告11:45-74
7)永坂正夫(1997)河北潟の水生植物の現状.河北潟総合研究1:2-8
8)永坂正夫(1997)河北潟湖岸帯の植生分布とその種構成について.telos17:21-35
9)高橋 久・川原奈苗(2002)河北潟干拓地の土地利用状況−1999年のデータから.河北潟総合研究5:17-24
10)石川県河北潟営農センター(2000)飼料作物の生産状況.緑の大地(河北潟干拓地の営農)
11)川原奈苗・高橋 久(2003)夜間干拓地に飛来するカモ類の群れの利用環境(第一報).河北潟総合研究6:19-26
12)高橋 久・永坂正夫・白井伸和・川原奈苗(2003)河北潟西部承水路の水生植物の現状−在来種の衰退とホテイアオイEichhornia crassipesの大繁殖について.河北潟総合研究6:27-39
13)野田英樹・鎌田直人(2003)河北潟におけるカメ類の生息状況.河北潟総合研究.6:11-17
14)河北潟湖沼研究所生物委員会(1999)河北潟将来構想−多様な水辺の再生・農業と野生生物の共生−.河北潟湖沼研究所

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