河北潟の水郷 ・聞き書き
河北潟の水郷の記録
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第20話 よもやま話をしながら
当時は、潟端の部落の真ん中を、両岸が石垣で護岸された「前川」が流れておりました。20~30cmほどの大きな石が4~5段積まれた石垣の護岸です。前川の川幅は約4m、川沿いの道は巾2間ほどありました。川を挟んで両側の岸沿いに家が建ち並び、家の前の川に舟が横付けされていました。 夏は、前川の南側の玄関先など、日陰の適当なところで一服したものです。涼しい風の通る玄関先に筵を敷いて、気心の知れた人達がそれぞれ自分の仕事を持ち寄りました。よもやま話でもしながら、漁具を作ったり、修理をしたり、秋の準備をしたりと、色々と必要な作業をすすめます。年寄りや先輩が大物を捕ったときの話や、失敗談などを聞きながら手を動かしていると、時間の経つのを忘れました。 竹製のウガイの漁具も、そうしたところで準備しました。田の草取りが終わった7月はじめから8月のお盆頃までのことです。漁具の痛み具合は、日頃の使い方で違ってくるものですが、漁具を結んでいる糸や紐が古びていたり、グラグラ緩んだ状態のままで漁をすると、魚のあたり(手応え)が解らずに不漁となります。緩んだ紐や糸をしっかりと直しました。また、竹の折れたところは部分的に取り替え、新しい物を作ったりもしました。 そうした時間の中で、年寄りや先輩の知恵、やり方、コツなどを教わることができ、自分なりに工夫も加えていきました。今思えば、当時の人たちは誰でも親切で、経験が豊富にあり、何時でも気軽に応じてもらえました。良かったなあと、感謝の気持ちで当時を偲んでいます。 |
第19話 ヌカエビ
たしか秋の農繁期が終わった頃だったと思います。昼も近づいたので家に帰ろうと、中条フゴの川畔を歩いていたとき、ヌカエビが川の藻の水面にたくさんいるのを見つけました。この川は、幅は6尺あまりほど(約1.8m)しかありませんでしたが、深さは大人の胸ぐらいまである深い川でした。藻は、秋の入りに引きましたので、取り残したものが水面に広がって生えていたくらいに思います。ヌカエビがたくさんいる様子を見て、急いでエビを掬う網(タモ)を取って来ました。1時間ほど掬って、約1升5合くらい(5kg)は捕れて大漁でした。普通は半日かかっても捕れない量だと思いました。それ以降にも同じ場所で、このような出来事が2回ほどあったと記憶しています。 10月に入って、水温も下がり、漬漁に行くようになると、時々、大物の魚が入ります。そのような鮒の大物とか、三年ナマズなどの大物は、川に漬けた鮒櫃に泳がして保存しました。水がたくさん入っていても、鮒櫃が浮きますので、上に石などを置いて沈め、杭を打って縄でしばり安定させました。 |
第18話 紐はカラムシ
河北潟の東側に位置する集落、「潟端」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃(昭和34年頃)までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。 麻畠 カラムシの利用 いまでは縄を綯うことのできる人は少なくなりました。藁を3~4本ずつ両手に取り、両手の掌で縒りをかけて、一本の縄を作ることを綯うといいます。縄の太さが均一で、引っ張っても抜けたり切れたりしない丈夫なものが優れており、縄綯いも経験が大切でした。縄を綯う前段階に、藁を選って、一升瓶ほどの大きさに束ねたものを杵で叩きます。汗が出るほどたくさん叩きました。この手間を掛けることで柔らかくて使いやすい縄ができ、持ちも良くなりました。縄の出来が良いと草履や草鞋も上手に編むことができました。 それぞれの用途に合わせて太さの違う縄が作られていました。当時は、太さや長さの単位が尺貫法でしたので、縄の太さも「○分縄」といわれて通用しました。日頃一番使われた藁縄は、3分5厘ほど(約12mm)の太さで、「4分縄」と呼ばれていました。 縄の一番太いものは、なんといっても稲架縄で、8分(約24mm径)以上の太さがありました。ふつう縄は2本で綯いますが、稲架縄は3本で綯いました。3本縄でないと、稲の乾きが悪いといわれ、3本縄をつくるときは男性二人がかりで行いました。上から縄を吊して、その両脇に立って作業します。家族3人で協力することもありました。人力の縄綯い機もありましたが、藁を差し込むサイズに限界がありましたので、稲架縄ほどの太い縄は作れませんでした。 稲架縄は太さだけでなく、長さもありました。潟端では幅10間の稲架場に、稲架縄が10段架けられることが普通で、その10段分が1本の縄で張られます。長さにして100間分(約180m以上)もあります。保管するときは、縄を輪にして積み重ね、一回り6尺になるような大きさで円にし、それを10回させると60尺で稲架場一段分の長さに、それが10段分で100間と、長さを確認できる置き方をしました。この稲架縄は、冬場に作る大仕事でした。 「柴刈り 縄綯い 草鞋をつくり、親の手を助け 弟を世話し、兄弟仲良く孝行つくす、手本は二宮金次郎。」、唱歌の二宮金次郎にあるとおり、縄を綯うことが暮らしの一部にあった時代でした。 ナイロンの登場 |
第17話 田んぼに水を入れる「水車(みずぐるま)」
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第16話 ドジョウ掬い
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第15話 田螺拾い、シジミ採り
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第14話 ヒシの実
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第13話 水草のある川
潟端の農村風景は江戸時代より受け継がれてきたものですが、終戦後二度に渡っておこなわれた耕地整理で大きく変わりました(1952年頃と1966年頃)。一度目のときはほとんど人力でおこなわれ、舟の通る川はまだ残されていました。二度目のときにブルドーザーなどが出動し、川や湖岸の様相が一変しました。潟端の田園風景はまさに水郷でしたが、曲がった川や田んぼも真っ直ぐになり、用排水路もコンクリート造りとなって、数少ない川畔の木や、素足で歩いた道もなくなりました。いまでは当時の記憶を思い出せる方達も少なくなっています。 色々な川(水路) 川の管理のしくみ 水草の記憶 |
第12話 自然を読む力
河北潟を巡った物々交換 大事にした言い伝え 自然現象 |
第11話 大切なヨシ
葦で葺いた屋根 葦場(よしば) そのほかの用途 |
第10話 潟端の飲み水
潟端の部落がある河北潟東の平野部一帯は、藩政時代以降に開墾された開田地帯で、土地の低いところです。低地にある潟端では、生活用水の確保に様々な工夫がなされていました。 油水 元井戸から各家へ 水の思い出 |
第9話 潟端の漁の終わり
河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。 ボラの大漁、うがい漁の終幕 農薬と除草剤の普及 潟や川の魚を食べなくなった時 |
第8話 潟端の川での漁Ⅱ「漬(つけ)」
今から50年ほど前まで、潟端では河北潟へ流れる川を利用して、“漬(粗朶漬)”漁をおこなっていました。川に数十本の粗朶木を漬けて、魚が潜む場所をつくり、そこに寄りついた魚を獲るというものです。漬漁は呼び方や漁法が多少異なりますが、河北潟の周辺地域にいくつか存在したようです。たとえば、大きな津幡川が流れる川尻村には、使い古した舟に粗朶木をつめこんで、その舟をひっくり返して川へ沈めておく、通称「箱漬(はこづけ)」漁がありました。 漬の場所 漬のつくり方 粗朶木の樹種 漬漁 |
第7話 農閑期の川での漁
潟端には当時、用排水路や稲舟のとおる川が20数本も流れていました。その川はすべて河北潟に通じていましたので、塩水の混じる汽水にいる魚もみられました。冬のフナやアマサギ(ワカサギ)、夏のモロコやゴリ、コイやボラは稀に、そのほかカワギス(マハゼ)やナマズにドジョウなど、川の魚は潟端でくらす人たちの食を豊かにしてくれました。とくに冬のフナは身が締まって美味しく、最もよく食べられました。カワギスは川でも河口部のヨシがあるところに多くいました。叩網漁をしたときに、網に異常に入ったこともあります。終戦頃までたくさんみられました。ハネ(スズキの小さいもの)が、10匹から20匹の群れをなして、川に上ってくることもありました。 フナの手づかみと、前掻漁 逆網漁 氷割漁(カテヤブリ、カテワリ) |
第6話 潟端のうがい漁
潟端では、"うがい(うかい)"という竹製の漁具を用いた漁がおこなわれていました。うがいは水深が太股くらいまでの浅瀬で使用するもので、魚が入るように上から水底に被せ、中に閉じこめた魚を上の口から手で取り出します。 漁の時期 漁の方法 漁で捕れた魚 |
第5話 魚が豊富な汽水湖、河北潟
河北潟に干拓地ができ1980年(昭和55年)に大根布防潮水門が設置されるまで、河北潟には大野川から海水が流れ込んでいました。塩水と真水が混じる汽水湖で、いまと違って魚の種類が豊富でした。粟崎の北陸鉄道の鉄橋より下流の、機具橋よりもう一つ下流側に大野川逆水門がありました。日本海の水位が高くなり、稲作に被害が出るようなときに逆水門は閉められました。 逆水門での思い出話 魚が寄りついた浅瀬の様子 潟端の漁 |
第4話 稲架木が並ぶ潟端の風景
河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。 第一回目の耕地整理の後、幅10間の広い田んぼができてからは、川沿いにびっしりと稲架木が立ち並ぶようになりました。立ち並んだ稲架木に、黄金色の稲束が架けられた風景は美事でした。 |
第3話 潟端の暮らしを支えた道
「越路の野山ひた走る 鉄路分れて能登に入る 岐に近きこの里に 建り我らが学舎は・・。」、この詩は中條小学校の校歌の一節です。潟端のある中條村には、山麓を鉄道が走り、北陸本線と七尾線の分岐駅(津幡駅)があります。そして駅から250mほど西に下った北国街道沿いに小学校がありました。 北国街道(南中條の部落の南端)から潟端の部落の中央までの道は、車が通れました。路肩の両側が石垣で積まれた巾2間(約3m60cm)の立派な砂利道でした。この道は、大正2年(1913年)に、加賀神社(もとは諏訪神社)が県社加賀神社になったときに、神社が数10m道側に新築され、神社までの細道が拡げられてできたそうです。通称「表道」と呼ばれ、毎年6月と10月の祭礼日には子供御輿や獅子舞がでて賑わいます。加賀神社より西は、細い砂利道でしたが、戦後に中条校下で消防自動車が購入されたときに、部落の奧まで車が入れるようにと道幅が拡げられました。 部落の西側はもっぱら田んぼで、潟まで1kmほどあります。部落の西端から、南には七ツ屋につながる巾1~1.5mの道が、反対の北側には三昧川の川端に川尻につながる道がありました。いずれもその部落に行くときの近道で、日中の明るい時に通りました。泥が踏み固まった道で、裸足で走っても安全でした。 学校や町に出るときは下駄や草履、長靴を履いていましたが、田んぼ道は裸足がふつうでした。農作業のときなど重たい物を運ぶときは、舟が役立ちましたが、川が通じていない場所では「もっこ」を使いました。網状に編んだ縄の四隅に吊り綱を2本付けたものを、頑丈なもっこ棒に通し、前後2人で担いで運ぶものです。子供と大人で力の差があっても、つり下げる位置を変えることで上手く運ぶことができ、細道での運搬に適した有り難い道具でした。田植えの頃は、天秤棒で苗代田から苗を運びました。200束ほどの苗を詰めた苗籠を、天秤棒の両端に吊して肩に担ぎ、しなる天秤棒に歩調をあわせながら、1kmくらいは休むことなく歩くものでした。内灘の人が舟で渡ってきて、イワシなど新鮮な魚を天秤棒で担いで、荒川の岸辺から部落の方まで売りに来てくれることもありました。また、自転車は最高の機動力でした。お医者さんは、歩けない病人の家まで、自転車で往診に来てくださいました。出産の時も、町から産婆さんが三輪車で来ていました。救急車や消防車がなかった頃は、歩けない病人は荷車にのって、人力で運ばれていました。 田んぼ道を行き来するのは人だけでなく、牛や馬もいました。牛馬がかろうじて歩ける道幅なので、路肩がしばしば崩れました。馬は泥にはまると、あばれて脚を折ってしまうので注意が必要でした。路肩が崩れたときには修繕し、ハサ木を抜いたあとの穴には藁を詰め込むなどして、歩きやすい道をつくっていました。部落の東側に馬渡とよばれる場所がありましたが、そこは川の底質が砂地で固く、馬の蹄が沈みませんでした。川を渡らせたり、牛や馬の汚れを荒洗いする都合の良いところでした。牛馬は農耕用に使われましたが、その歴史は浅いようです。潟端では農期になると山から共同で借りてきましたが、いろいろと面倒がかかることもあり、とくに馬を借りるグループは少数でした。農業機械が普及するとともに牛馬の姿は見られなくなりました。 昭和22年からの農地改革を経て、潟端では昭和27~30年頃と、昭和41年(1966年)からの大きく2回に渡って耕地整理がおこなわれました。部落の中央を流れる前川には、舟が置かれていましたが、2回目の耕地整理のときに暗渠化され、道は拡幅してアスファルト道路ができました。舟は使われなくなり、車の時代へと変わりはじめました。 |
第2話 潟端の暮らしとともにあった舟
舟は、水郷潟端の暮らしとともにありました。秋の収穫期は最もよく使われ、何艘もの舟が行き来しました。稲を干す場所をつくるのにも、収穫した稲束を家まで運ぶときにも舟が必要となります。川端に置いている数十本の稲架木を、舟で運んで組み立てる作業は、一週間ほどかかる大仕事でした。春先には田んぼを客土するために、川の泥を舟に入れて運びました。また、夏の日照り時に田んぼに水を入れる水車(踏車)を運んだり、川端の畑で収穫した野菜をのせて運ぶこともありました。魚を捕りに舟を出したり、物々交換に内灘まで行くのも舟でした。舟は、いまの車や一輪車のような役割を果たしていました。 舟は幼い頃から乗る練習をするので、子どもらはみんな使いこなしていました。舟を漕ぐのにも技がいるもので、下手に漕ぐと、舟と舟があたったり、長い棹があたって音がします。車の少ない静かな時代で、舟をたたいて遠くにいる人に合図することもありましたから、下手に漕ぐと注目を浴びることになりました。そのため静かに舟を漕げるよう、皆よく特訓していました。夜舟を漕ぐ音は、とくに響き渡り、音をさせると家の中にまで聞こえました。夜に舟が出ると、その音で誰がでていったか大体見当がつくほどでした。 潟端では、八田や内灘のような本格的な漁はほとんどおこなわれず、生活の糧は米づくりにありました。そのため潟端の舟は、稲を運ぶための大きな舟でした。漁をするための八田の舟は棹で漕いでも、スーッと前へ進みますが、潟端の舟は歩く速度より遅いくらいで、ゆっくりと進みます。潟端の舟は総長4間3尺ほど(約8m)でしたが、八田の漁舟は1丈9尺8寸ほど(約6m)と潟端の舟より小さく、海に出るタイプの内灘の舟は最も短くて幅がありました。舟の長さや縁の高さ、反り具合は用途に合わせてできているもので、潟端の舟で日本海に出たら忽ち沈没してしまいます。また稲を運ぶ舟でも、大浦や木越の舟は潟端とよく似ていましたが、川尻の舟はより長く、たくさんの稲を積むことができました。川尻には津幡川など深くて大きな川があり、大きい舟の運航が可能でした。河北潟の舟といっても、地域の条件に適した舟がそれぞれ存在していました。 稲を運ぶ舟で漁をおこなうことは難しいので、本格的に漁をする人は八田に行き、使い古された中古品の舟を買っていました。そのため漁をする家には、稲を運ぶ舟と漁をする舟の2つのタイプがありました。昭和23年の潟端の部落92軒には、80隻の舟がありましたが、八田の舟を持っている家は4,5軒でした。漁用の舟は多少ひび割れても大丈夫ですが、潟端の舟は乾いた稲を運ぶので、ひびが入らないよう注意しました。雨風をしのげる舟小屋は地主のような人しか持つことができず、潟端の部落には4軒くらいしかありませんでした。たいていの舟は家の前の川に横付けして置かれ、杭に縄でつないでいました。川に置けない舟は、空き地に置かれました。舟には薦(藁で編んだもの)をかけて、日除けしていました。 |
第1話 水郷、潟端を流れる川とフゴ
潟端について 田んぼと川 フゴ |