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河北潟

河北潟の水郷 ・聞き書き

河北潟の水郷の記録

 河北潟の東に「潟端(かたばた)」という集落があります。河北潟に干拓地ができ、周辺の排水改良事業がおこなわれる以前の1950年代頃まで、河北潟とその周りは豊かな水郷地帯でした。つい半世紀前のことですが、その頃の人の暮らしと風景は、現在では想像できないほど変わりました。潟端で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに長年にわたって協力をいただき、文章に残す作業をしました。水郷時代の潟端の暮らしと自然についてお伝えします。
(語り/坂野 巌,聞き取り・文/川原奈苗

 

第20話 よもやま話をしながら

(通信かほくがたvol.17-4(2012年3月発行)掲載記事)

 当時は、潟端の部落の真ん中を、両岸が石垣で護岸された「前川」が流れておりました。20~30cmほどの大きな石が4~5段積まれた石垣の護岸です。前川の川幅は約4m、川沿いの道は巾2間ほどありました。川を挟んで両側の岸沿いに家が建ち並び、家の前の川に舟が横付けされていました。 夏は、前川の南側の玄関先など、日陰の適当なところで一服したものです。涼しい風の通る玄関先に筵を敷いて、気心の知れた人達がそれぞれ自分の仕事を持ち寄りました。よもやま話でもしながら、漁具を作ったり、修理をしたり、秋の準備をしたりと、色々と必要な作業をすすめます。年寄りや先輩が大物を捕ったときの話や、失敗談などを聞きながら手を動かしていると、時間の経つのを忘れました。 竹製のウガイの漁具も、そうしたところで準備しました。田の草取りが終わった7月はじめから8月のお盆頃までのことです。漁具の痛み具合は、日頃の使い方で違ってくるものですが、漁具を結んでいる糸や紐が古びていたり、グラグラ緩んだ状態のままで漁をすると、魚のあたり(手応え)が解らずに不漁となります。緩んだ紐や糸をしっかりと直しました。また、竹の折れたところは部分的に取り替え、新しい物を作ったりもしました。 そうした時間の中で、年寄りや先輩の知恵、やり方、コツなどを教わることができ、自分なりに工夫も加えていきました。今思えば、当時の人たちは誰でも親切で、経験が豊富にあり、何時でも気軽に応じてもらえました。良かったなあと、感謝の気持ちで当時を偲んでいます。

第19話 ヌカエビ

 

(通信かほくがたvol.17-3(2012年2月発行)掲載記事)

 たしか秋の農繁期が終わった頃だったと思います。昼も近づいたので家に帰ろうと、中条フゴの川畔を歩いていたとき、ヌカエビが川の藻の水面にたくさんいるのを見つけました。この川は、幅は6尺あまりほど(約1.8m)しかありませんでしたが、深さは大人の胸ぐらいまである深い川でした。藻は、秋の入りに引きましたので、取り残したものが水面に広がって生えていたくらいに思います。ヌカエビがたくさんいる様子を見て、急いでエビを掬う網(タモ)を取って来ました。1時間ほど掬って、約1升5合くらい(5kg)は捕れて大漁でした。普通は半日かかっても捕れない量だと思いました。それ以降にも同じ場所で、このような出来事が2回ほどあったと記憶しています。
 エビを捕るときは専用のタモ網を使いました。川の藻をタモで掬って、水切りをするために揺すると、藻は目皿の網に残り、エビだけが網の中に溜まりました。
ライギョを捕るのは主に、「漬漁」で捕りましたが、夏場の朝夕の暇な時間に遊び心で釣りをすることもありました。
 釣り竿を利用して、釣り糸の先の針に、アマガエルの背中の皮に針を引っかけ、そのカエルをライギョの潜んでいるような川岸の藻の隙間で、蛙がチョンチョンと水面を跳ねるように動かします。ライギョはその餌に飛びついて、鵜呑みにするので、上手に捕まえることができます。そして引きの強い手応えは、釣りをしたことのある人には忘れられない快感でした。
 ライギョは体の背に模様があり、ニシキヘビの模様と一部似ていたこともあって、はじめは敬遠されていましたが、ライギョを食べると、体が元気になると言われ、また海の魚に似た食感で食べるようになりました。子供の頃は、ライギョは河北潟や川にはいませんでした。戦後に急増した魚でした。
 川で産卵して、卵から出ると、藻の間にちょうど蛙のオタマジャクシの群れのように水面に泳いでいました。その群れの下、水面下の藻の間で、親魚が番をしております。危険なものが近づくと、跳ねて、水面にいる子どもが「さーっ」と一気に隠れました。
体長30cm以下の小さなライギョは、捕まえても食べずに放してやりました。ライギョ釣りの餌にシオカラトンボをつける人もいましたが、効果は少なかったようです。

 10月に入って、水温も下がり、漬漁に行くようになると、時々、大物の魚が入ります。そのような鮒の大物とか、三年ナマズなどの大物は、川に漬けた鮒櫃に泳がして保存しました。水がたくさん入っていても、鮒櫃が浮きますので、上に石などを置いて沈め、杭を打って縄でしばり安定させました。
 クサマキでつくるドジョウ入れ(木製の櫃)と違って、スギ材の厚い板を使いました。大きさも色々ありましたが、普通は横幅約1m50cm×奥行き70cm×高さ約25cmくらいの物でした。

第18話 紐はカラムシ

(通信かほくがたvol.17-2(2011年11月発行)掲載記事)

 河北潟の東側に位置する集落、「潟端」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃(昭和34年頃)までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

麻畠
 カラムシ(イラクサ科の多年草)は、茎の繊維が強く、麻として利用されていました。日常に必要な紐や縄などを自分たちで作っていた当時、カラムシの栽培は当たり前のことでした。
 カラムシは、畑3坪くらいの場所(軽トラックの荷台4つ分ほどの広さ)で育てていました。その場所のことを「麻畠」といって、農家のどの家でも作られていました。麻畠の場所は、「屋号○○家の麻畠」などと呼ばれ、持ち主がふつうに知られているものでした。麻畠の広さは大小ありましたが、少ない家では、たくさんある家の余った分をもらっていたようです。
 麻の刈り取り時期は夏に決まっていましたが、刈り取りをしたほうが来年良い物ができるといわれ、麻畠のカラムシは毎夏きれいに刈り取られました。カラムシのりっぱなものは、茎の太さが親指以上(直径2.5~3cmくらい)もあり、1株からたくさんの繊維がとれますので、太いカラムシが穫れるように、肥料をやって育てていました。
 麻畠は、夏が近づくと蚊などの虫がたくさん発生し、嫌がられる場所でした。虫除けスプレーや殺虫剤もありませんでしたので、できるだけ近づかないようにしていました。

カラムシの利用
 カラムシを刈り取る日は「土用の3番」と言われ、7月20日の土用入りして3日目が作業日でした。雨天の時は遅らせます。カラムシを育てて繊維を取るのは祖母の仕事でしたが、時々井戸水を汲むなどの手伝いをしました。
 カラムシの繊維の取り方は、刈り取り後すぐに茎の皮をむいて、むいた皮を薄板の台の上に置き、専用の鏝(コテ)を使って皮を削ります。白くなるまで削り取って繊維を取り出し、水洗いして盥でしばらく晒してから、竿に吊して乾かしました。
 乾かした繊維を綯って、紐や縄にします。カラムシの繊維は繊細でありながら強力で、細い紐から太いロープまで自由に作ることができました。ナイロン紐がありませんでしたので、カラムシの紐は重宝しました。また、藁で作られたロープよりも、カラムシの方が3倍も4倍も強くて丈夫で、カラムシの3本縄でつくられたロープは最も強度がありました。刈り取りした稲を積み込んだ舟を引っ張るときのロープとして用いたり、内灘へ行く舟の帆柱を立てるときにも用いられました。そのほか荷物を背負う縄、葦簀の紐、下駄の鼻緒の芯など、様々な用途がありました。
 また、繊維だけでなく、皮をむいた後の茎を利用することもありました。乾燥させた茎を、家のタンスの下などに敷きつめます。カラムシの茎は中空で、吸湿、放湿性に優れている性質から、湿気取りとして上手く利用されていたように思います。

縄ない
 いまでは縄を綯うことのできる人は少なくなりました。藁を3~4本ずつ両手に取り、両手の掌で縒りをかけて、一本の縄を作ることを綯うといいます。縄の太さが均一で、引っ張っても抜けたり切れたりしない丈夫なものが優れており、縄綯いも経験が大切でした。縄を綯う前段階に、藁を選って、一升瓶ほどの大きさに束ねたものを杵で叩きます。汗が出るほどたくさん叩きました。この手間を掛けることで柔らかくて使いやすい縄ができ、持ちも良くなりました。縄の出来が良いと草履や草鞋も上手に編むことができました。
それぞれの用途に合わせて太さの違う縄が作られていました。当時は、太さや長さの単位が尺貫法でしたので、縄の太さも「○分縄」といわれて通用しました。日頃一番使われた藁縄は、3分5厘ほど(約12mm)の太さで、「4分縄」と呼ばれていました。
 縄の一番太いものは、なんといっても稲架縄で、8分(約24mm径)以上の太さがありました。ふつう縄は2本で綯いますが、稲架縄は3本で綯いました。3本縄でないと、稲の乾きが悪いといわれ、3本縄をつくるときは男性二人がかりで行いました。上から縄を吊して、その両脇に立って作業します。家族3人で協力することもありました。人力の縄綯い機もありましたが、藁を差し込むサイズに限界がありましたので、稲架縄ほどの太い縄は作れませんでした。
稲架縄は太さだけでなく、長さもありました。潟端では幅10間の稲架場に、稲架縄が10段架けられることが普通で、その10段分が1本の縄で張られます。長さにして100間分(約180m以上)もあります。保管するときは、縄を輪にして積み重ね、一回り6尺になるような大きさで円にし、それを10回させると60尺で稲架場一段分の長さに、それが10段分で100間と、長さを確認できる置き方をしました。この稲架縄は、冬場に作る大仕事でした。
 「柴刈り 縄綯い 草鞋をつくり、親の手を助け 弟を世話し、兄弟仲良く孝行つくす、手本は二宮金次郎。」、唱歌の二宮金次郎にあるとおり、縄を綯うことが暮らしの一部にあった時代でした。

ナイロンの登場
 各家で作る麻紐や藁縄は、自家用に使うのがふつうで、譲ることはあっても、売り物にはしませんでした。当時は、金沢市横安江町別院通りの目細針商店で、ロープや魚網などが売られていました。綿糸で作られたものがほとんどで、綿製のロープを購入して、荷舟を引っ張るのに使う人もいましたが、水に濡れると固くなる欠点があったようです。投網も終戦以前は木綿でした。
 その後、ナイロンが流行してきましたが、ナイロン製の漁網は、高価でしたので使いませんでした。ナイロン紐が売り出されてから2~3年は、ナイロン紐にも難点がありましたが、次第に改良されて値段も下がり、利用するようになりました。自前の麻紐のように作る手間もかからず、安価なので気楽に使うようになりました。
 ナイロンの普及がすすむとともに麻畠は姿を消していきました。耕して畑になったり、宅地に変わりました。そうしてカラムシ(麻紐)もいつの間にか使わなくなりました。

第17話 田んぼに水を入れる「水車(みずぐるま)」

(通信かほくがたvol.17-1(2011年8月発行)掲載記事)

 潟端は、河北潟の東にひろがる田園地帯にあって、水郷の里といわれました。竹竿を使って川舟を漕ぐ姿や、潟を通る帆掛け舟、収穫期の川沿いの稲架干しや、稲束をのせた舟が行き来する風景など、他所から来た人たちには珍しい情景があったようです。遠くから親戚が来たときには、シジミ貝をとったり、舟で潟に出て釣りをするなどして遊びました。
水車を踏む様子もそうした水郷風景の一つでした。「水車を踏んで川から田に水を入れる風景は、絵にも詩にもなる風物詩だ。」、といったことを良く耳にしました。しかし、そのようなのどかさは当の農民にはなく、田の旱魃や水車に関係のない人たちの言われることでした。水車を使うのは、田んぼが水涸れになる時で、大変な労力を要したからです。潟端では幸い、水不足による「寝ずの水番」や水争いはありませんでしたが、田植え後の稲が育つ時期に、揚水のポンプが故障したり、用水の水が不足して、田んぼが干し上がることがありました。水不足が起きると、家族で相談し、水車をアマ(農家の二階の物置)から出しました。

水車の用意
  水車は、高さ約158cm、幅約216cmの大きさがありましたので、運ぶときは舟を使いました。ただ、ところどころに川を土嚢で止めたところがありましたので、舟で運ぶのにも苦心しました。春耕時に牛馬を通すのに積まれた土嚢です。
また、舟を通せない場所にある田んぼへ行くのがやっかいでした。どのような方法で水車を運ぶと良いか、家族で話し合ったものです。川畔の道幅も狭く、一輪車もリヤカーも持っていない時代でしたから、すべて人力で運ぶしかありませんでした。例えば自宅から2kmも離れた百石川近くの田んぼが干し上がったときは、水車を二つに分解して、背負ったり、肩に担ぐなどして、途中何回も休みながら運びました。
 目的のところまで運び終えたら、川に水車を設置します。水車の車輪の深さは、水車を踏む人に合わせて調整しました。踏む力の強い人は、羽根が深く浸かるように低く設置します。例えば体重55kg、身長165cmの場合、水車の深さが25cm位になるよう仕掛けました。
水車は2本の竹竿と紐で固定されました。竹竿は水車を挟んで1本ずつ立て、川底の泥の中へ力一杯差し込みます。水車を踏むときに竹竿の上部を握りますので、握りやすい角度に取り付けました。作業中に傾かないよう、水車と竹竿を紐でしっかりと縛ります。また、川の水面と田んぼの水面の差が1m以上ある場合は、水車が使えませんので、仕掛けるのに別の工夫がいりました。見極めのいる水車の設置は経験を積んだ人がおこないました。

水車を踏む
 水車は、別名「踏車(ふみぐるま)」と言うようですが、踏車という言葉は聞いたことがなく、潟端では「水車(みずぐるま)」の名で通っていました。人が水車の上に乗り、羽根板の端を踏み動かすと、羽根板が水面を叩きながら回ります。回転する水車の羽根板によって、川の水が汲み上げられ(押し上げられ)、田んぼに水を流し込みます。
 水車の羽根板を300~500回も踏むと、汗が出て足も疲れます。水車の台の上に座って一服すると、周りが見渡せて気持ちの良いものでした。少し高い位置からの眺めで、田んぼの水が行き渡っていないところも確認できます。「まだあの辺にも水がいっていないな、何分の1くらいや、まだがんばらんといかんなー。」というもので、また踏み出します。身軽に水車から飛び降りて、田んぼのどの辺まで水が届いたかを見に行くこともありました。田んぼの水位が1寸(約3cm)にならないと、1人前の仕事をしたことにはなりませんでしたので、5cm位になるのを目標に、何度も水車から降りては田の先々まで見に行ったことを覚えています。
 水車を踏むのは、大人の男性が主役でしたが、潟端に嫁いできた人は活発でよく水車を踏みました。身軽な子供も手伝いました。当時は人手不足で、学校から帰って水車を踏んだこともあります。高等小学校2年(今の中学2年生)の頃でした。

潟端の水車
  潟端では、ほとんどの家が水車を持っていたようです。普段はアマか籾殻小屋などに保管されており、田植え後の用水不足が続いた年にのみ使われました。何年かに一度のペースで使われていた様子です。水車は使い終わると、すぐに日陰や納屋まで持ってきて、長持ちするよう大事に扱いました。
 潟端には水車を作る大工さんが1人おりました。部落の東入口に所在した松井大工さんです。細工が上手で、使う人の意見をよく聞いてくださり、自分の工夫や考え方も話す熱心な棟梁で、皆から信頼されていました。父親のときにクサマキの立派な細工の水車を作ってもらいました。農機具ポンプの普及がすすむにつれて、人力の水車は姿を消していきました。水車を使わなくなった頃、資料館に収蔵するための道具を集めに廻っていた部落の住職さんにお願いされ、水車を寄付しました。

第16話 ドジョウ掬い

(通信かほくがたvol.16-4(2011年6月発行)掲載記事)

 ドジョウは、潟端を流れる川にふつうにいる魚ですが、ドジョウを捕るのは6月末から7月中頃の夏の一時期でした。「土用の丑(7月20日頃)になるともう駄目なんや。」と言われ、7月20日を過ぎると数が入らなくなり、8月になると全く捕れなくなりました。
部落内を流れる前川にはドジョウがたくさんいましたが、家庭排水が直接流れ込む場所のドジョウを捕ることはありませんでした。

ソウケ
 「泥鰌掬い」というと、まず思い浮かべるのは、民謡『安来節』に出てくる男踊りでしょう。水玉模様の手拭いで頬かむりをして、5円玉を通した糸を耳からかけて鼻先にのせ、おまけに鼻下に2本線、頭には竹でつくられたザル「ソウケ(潟端の方言)」をかぶり、着物は尻まくりしてフンドシの垂れを見せ、腰には小さなイコ(魚の入れ物)を、肩にタスキを掛けた野良着姿で登場します。その踊りの身振り手振りや、足さばき、また掬ったドジョウをイコの中へ入れる仕草や、イコに入れたあと顔を上げて満足そうに笑う姿は、泥鰌掬いをする人の気持ちをそのままに表現したものと思います。
 この竹で編んだザル「ソウケ」は、子どもの頃には各家々の台所にあって、米や豆などを洗うのに使われていました。ドジョウが捕れる時期には、小学校から帰るとすぐにソウケとバケツを持って、2~3人で近くの田んぼや小川へドジョウ掬いに行ったものでした。田んぼの水落口にソウケを当て、足でジャブジャブ踏み出すと、オタマジャクシやドジョウが逃げ出してソウケの中に入ります。藁を使っている水落口では2~3回同じ事をやっても、ドジョウが出てきました。

ウイ(またはウエ)
 ドジョウ捕り専用の漁具には、潟端の方言で「ウイ(またはウエ)」がありました。これは潟端では主に田んぼの水を落水するときに用いました。6月中頃から7月中頃まで、田に溝を付けて、田んぼを乾かす段取りをします。田んぼの草を取りながら、泥を両手で掘り動かして溝を作っていると、ドジョウの気配を感じることがあります。そうした時は、水落口にウイを当ててから落水しました。田の水が次第に落ち、水が無くなった時を見計らってウイを取りに行きます。だいたい3合~5合くらいのドジョウが捕れましたが、思いがけないほどたくさんのドジョウが入っていることもありました。

タモ(タモ網)
 ドジョウを捕るのに一番よく使っていた漁具は、ドジョウ掬い専用のタモ(タモ網)でした。このタモを持って外に出ると、「ドジョウ掬いに行くのかね。」と、聞かれたものです。網は蚊帳のように繊細で、普通のタモ網より少しサイズが大きく、網に袖袋が付けてあるのが特徴です。掬ったドジョウを溜められるので、この網があるとドジョウが捕れてもそのまま水の中を引きずりながら歩いて、ドジョウの棲んでいそうなところをタモで掬ってまわることができます。タモを担いで歩いている姿を見ると、豊漁かどうかがわかりました。
 袖袋にドジョウがある程度溜まってくると、泥鰌入れ(泥鰌櫃)に移します。泥鰌入れは漁をしている間は日陰に置いておきました。上手な人は、半日で5升(10kg位)も捕れることがありました。ドジョウの大漁です。たくさん捕れたドジョウも、土用の丑の日を過ぎると不思議に捕れなくなります。
 このドジョウ掬い専用のタモを持っている家は少なく、当時潟端の部落90軒余りある中で10軒ほどでした。タモが使えないような狭い場所では、ソウケを使いました。

蒲焼き、柳川丼
 捕ってきたドジョウは、冷たい井戸水を入れた大盥に、2~3日泳がしました。水を1日に何回も替えて、ゴミなどを十分に吐かせるようにします。猫に捕られないよう葦簾をかけるなどして、外の涼しいところに置きました。
 土用の丑の日も近づくと、通称ドジョウ商人が魚屋さんを連れて買いに来ます。1cm間隔ほどの竹桟を目皿のように入れた木箱を使って、太めのもの、細いものを選り分けました。太いドジョウは蒲焼き用になるので高価でした。細いものは柳川丼だと言っていました。土用の丑の頃は値が一番高くなりますが、あまり捕れなくなるので、前もって蓄えておきました。
 また、泥を吐かせたドジョウを新鮮なうちに地主の家に持っていきました。自宅では最後に残ったドジョウを食べました。器用な人は蒲焼きにできましたが、柳川丼にして食べるのがふつうでした。あまりたくさん食するものではなく、若い人はあまり口にしませんでした。

ドジョウ掬いの狙い時
 稲の生育も進み、田んぼの除草も一段落する7月頃になると、川から揚げていた用水のポンプを止める日が出てきます。水の流れが無くなると、用水路や川の一部に淀みができ、夕暮れ近くは水温が上がって酸欠状態になります。こんな時、そこにいた魚は水面近くで口をパクパクさせ、人が近づくとガバッと水中へ逃げます。ドジョウも水面近くでぴしゃっと跳ねるのでわかります。たくさんドジョウがいるところでは次から次に跳ねるので、そんな場所には翌日になると誰かがドジョウ掬いに行っているものでした。
 日中の暑くて皆が昼寝をしているような頃を狙って、密かに捕りに行ったりもしました。田んぼの小川でドジョウ掬いに熱中しているときは、ヒルに血を吸われても気づかないくらいです。あとで足を見た時にびっくりします。ドジョウ掬いの上手な叔父さんに色々と教えてもらった記憶があり、隠れ場所から足の裏で追い込む水中の足技を習ったことを思い出します。

第15話 田螺拾い、シジミ採り

(通信かほくがたvol.16-3(2011年2月発行)掲載記事)

 河北潟が干拓される以前の潟は、塩水の混じる汽水湖でしたので、カレイやサヨリなど海の魚もよく見かけました。魚貝類が豊富で、潟縁ではシジミ貝がたくさん採れました。潟端には河北潟に通じる川が数本流れていましたが、その河口部の潟の中を歩くと、無数のシジミが足の裏に当たり、シジミの上を歩くようなところもありました。シジミはそうした河口部の砂地のところに集まっていましたが、川には黒色の大きな貝が泥の中にいました。ドロガイまたは淡貝とかカラス貝と呼ばれ(イシガイの類)、川のどこにでもいる様子で前掻き(川底に潜む魚などを獲る漁具)で良く採れました。大きいので食べ応えがありましたが、食べ過ぎるとお腹が緩むので、3~5つ以上食べるなといわれました。田んぼにはタニシがばらまいた様にいました。

田螺拾い

 稲刈りを終え、脱穀作業も終えた10月頃になると、近所の主婦達が数人集まって田螺拾いに出かけたものでした。普段から仲良くしているメンバーが2~3人、多い時には5人くらいで相談し合って、天気の良い日を選んで行きます。あまり目立たないよう密かに行動していました。行き先は部落北側の田んぼが中心で、通称フゴ地帯(潟から切り離されてできた沼地のあった場所。周辺より地盤の低い湿田地帯)の田んぼの川寄りが狙い目でした。川(用排水路)ももちろんです。「田螺は塩分にとくに弱くて棲むことができない。」と、古老などから聞いていましたので、潟に近い側の田んぼには行きませんでした。潟端より北の、中條フゴから太郎フゴ、旧井ノ上村の五反田地区、中須賀地区まで遠出したようでした。
 タニシは粘土質の田んぼには溢れるようにいました。砂がかったところには見られず、粘土質で泥深い太郎フゴにはとくにたくさんいたようです。また、水路にもいましたが、多くは田んぼに上がってきました。田螺拾いは稲刈り後の暖かい間だけでした。寒くなると一斉に泥に潜って姿を見せなくなりました。
 田螺拾いをする女性の格好は、もんぺに脚絆、割烹前掛け、綿入れのベストをして、腕抜きを付け、頭には手拭い、その上に頭巾をして、さらに笠をかぶりました。左手には拾った田螺を入れるイコ(2升入り)を持ち、右手で田螺を拾いました。イコに溜まった田螺は叺(肥料袋。肥料を使い終えた後、川水で洗って乾かして再利用した。)や「いずみ」(縄で編んだバック)に入れました。
 タニシは、現在水路などでみられるタニシよりも大きくて丸みのある貝でした。ただ当時も大きいタニシと小さいタニシがいましたが、食べ応えのある大きいタニシだけを採っていました。小さいものはやがて大きくなると思っていました。ザリガニが増え、農薬を撒かれたりしたことで、タニシが減ったような印象がありました。今では食べる人もいません。

田螺の調理

 持ち帰ったタニシは、自宅の窯に大きな鍋を掛けて、何回にも分けてたくさん茹でます。天気の悪い時に一気にする作業でした。棒で混ぜながら茹でますが、混ぜていると貝と貝があたってジャラジャラと音がするのでした。茹で上がると、固く閉じていた蓋がとれ、身の部分を通し針を使って取り出します。腸は殻の中に残しました。小学生の子供でもできるので、親の手伝いをしたものでした。貝殻と腸は空き地や畑の隅に穴を掘って埋めました。
 取り出したタニシの身の部分を、今度は藁灰を入れた桶の中で水洗いします。わたのかすや滑りをとるために、足で踏み洗いし、藁灰で滑りを十分に取り除きます。そうすると、アクが取れて美しい黄白色になります。綺麗になった身を水の中で冷まして出来上がりです。これを食品として近江町などに売りに行きました。タニシは他に業者がいなかったようで高値で売れました。当時は女性の副業になるような仕事も少なく、タニシの処理作業は良い小遣い銭稼ぎになりました。出来上がったタニシの身を金沢の近江町市場へ持っていくと、店の人が予想以上の高値で買ってくれたようです。帰る時にもまた持ってきて欲しいと言われたようで、嬉しくて「又来るから頼むね。」と、言葉を交わした思い出話も聞いています。
 余ったタニシは、豆と煮付けて食べました。売るほどの量が採れなかった時も自家用にしました。豆とコンニャクを小さく刻んで混ぜた煮物は美食でした。

シジミと淡貝

 シジミは年中採れるものでしたが、潟の水が温む7月~9月頃しか採りに行きませんでした。シジミを採りに行くのは、もっぱら女性や子供達の仕事でした。足の裏でこすりながら寄せ集め、手を入れて拾い上げます。現在川で見られるようなマシジミと違って、黒色の大粒の貝でした。百石川とアクスイ川の河口の潟にいるシジミは、とくに大粒で綺麗な黒色をしていましたが、部落の境界付近に位置するのであまり採りに行きませんでした。黒色のシジミの貝の裏側は、紫味のある紺色をして綺麗でした。
 シジミはタニシよりも安値でしたので、潟端ではシジミを売りに行く人はほとんどおらず、たくさん採った時は近所の人に配りました。また、淡貝は売れませんでした。淡貝もタニシと同じ調理方法で、身を出してアク抜きしたものを醤油などで煮付けて食べましたが、お腹が緩むので少量で十分でした。

第14話 ヒシの実

(通信かほくがたvol.16-2(2010年7月発行)掲載記事)

 潟端の農地は江戸時代より受け継がれてきたものですが、終戦後におこなわれた二度の耕地整理により、その姿は大きく変わりました。今は田んぼの大きさや形が規則正しく整備されていますが、当時は四角や三角、丸みのある田んぼで、大小異なっていました。その間を流れる川には、舟一艘が楽にすれ違えるほどの幅広い川もあれば、曲がりくねった細い川もありました。夏場は水草がよく繁っていましたが、その種類も豊富であったように思います。数ある水草の中でも、水面に葉を浮かべるヒシは、夏にヒシの実を採って食べていましたので親しみがあります。栗のような味のするヒシの実は、子供たちの良いおやつになりました。

ヒシの実採り
 お盆近くの夏休みに遠くから来客があると、よく子供たち同士で川へヒシの実採りに行きました。家にある掃除用の熊手や、カンコ(漬の枝を取り上げる道具)を持っていきます。道具があると、水面に浮かんでいるヒシを岸にたぐり寄せることができて簡単に採れました。川畔にはナスなどの野菜が植えてありましたので、岸から採る時は野菜を傷つけないよう気を付けました。ヒシはあるところには川一面を覆うほどたくさん生えていました。一株のヒシの葉の裏には、3~4個の実がついていましたので、一時間もいるとイコ(竹で編んだ入れ物)に一杯になるほど採れました。採ったヒシの実は、家に帰って水洗いし、塩茹でしたものを半分に割って食べます。食べ物の無い時代でしたので、子どもたちにとっての嬉しいおやつでした。また、来客には大変珍しがられました。
 ヒシの実が採れる時期は、夏の短い間だけでした。それは、お盆前かお盆過ぎにおこなわれる秋の取り入れ前の総人夫(稲刈り前の川の泥上げや除草)によって、ほかの水草と一緒にヒシも取り除いたからです。また、遅くなると実が落ちやすくなることもありました。熊手などで岸に引っ張り寄せた時に、すぐにポロッと外れて川底に沈んでしまいます。でも逆にあまり早くても、花が咲いている頃の実は、まだ小さくて軟らかい状態でした。頃合いを見計らって、毎年ヒシの花が咲きはじめると、時々様子を調べに行ったものです。
 そうしたことを抜きにすると、じつはポロッと落ちる頃の実が一番美味しい状態でした。この熟した実を採る時は川に入って、丁寧に葉を裏返し、一つ一つ実を摘みとるようにします。ヒシが生えている場所は、腰か胸くらいまである少し深いところでしたが、手に取ったヒシの下の辺りは、水が透き通ってとても綺麗な様子でした。ヒシが生えているところは特に、水が澄んでいた印象があります。

ヒシの実の採集場所
 ヒシには、大きいサイズの実ができるものと、一回り小さいサイズのものがありました。小さいサイズのヒシは、部落近くの大フゴ川のところに多くみられましたが、家庭排水が流入する近くのヒシを食べることはありませんでした。この小さいヒシにも実がたくさんできましたが、黒くて小さく刺々しい印象で、採って食べたような覚えはありません。
 大きいサイズのヒシの実は、食べやすいこともあって喜ばれました。部落から500m以上離れた横川へよく歩いて採りに行きました。大きいヒシが生えている川は限られていましたが、横川にはたくさんありました。ヒシは、膝丈や太股くらいまでの浅いところにはあまり生えていませんでした。横川は年中、穏やかな水の流れのある川でした。ヒシは川に自然に生える水草ですので、魚を捕る時と同様に、密かに良い場所を見つけて採りに行くこともありましたが、ヒシが生えているところの側の田んぼの家に一言断って採りに行くと安心でした。

第13話 水草のある川

(通信かほくがたvol.16-1(2010年7月発行)掲載記事)

 潟端の農村風景は江戸時代より受け継がれてきたものですが、終戦後二度に渡っておこなわれた耕地整理で大きく変わりました(1952年頃と1966年頃)。一度目のときはほとんど人力でおこなわれ、舟の通る川はまだ残されていました。二度目のときにブルドーザーなどが出動し、川や湖岸の様相が一変しました。潟端の田園風景はまさに水郷でしたが、曲がった川や田んぼも真っ直ぐになり、用排水路もコンクリート造りとなって、数少ない川畔の木や、素足で歩いた道もなくなりました。いまでは当時の記憶を思い出せる方達も少なくなっています。

色々な川(水路)
 潟端には大きな河川はないものの、山側から潟に向かって流れるいくつかの川(排水路)は、舟一艘が楽にすれ違えるほどの幅がありました。地元で中條川(下流側を十二号の川と呼ぶ)、荒川(十五号の川)、太田川、ギ割川、百石川と呼んでいる川です。いずれも部落と潟の間を北から南に流れる横川でつながっていました。このほかにも十四号の川、アクスイ川などがありました。だいたい9尺~10尺(3mほど)の川幅でしたが、太田川はとくに幅広くて水深があり、潟へ舟で出るときはこの川を通るのが普通でした。ここは舟の通行路としてよく手入れされていましたので、水草がほとんどありませんでした。たいていの川は膝か太股くらいまでの水深で、夏には水草が繁茂しました。百石川は腰の辺りまで水位があり、川幅の割には深い川でした。稀に大人の胸くらいまである川もありました。深い川のところは藻がたくさん生え、水が透きとおって冷たい感じがしました。
 潟端の用水は、森下川の上流から津幡川へつながる河原市用水からきていましたが、春耕には水不足となりましたので、潟端の田んぼにはおもに中條川と太田川からポンプで揚水した水が使われました。そのため田んぼに水を回す時期には、中條川や太田川の水が無くなることもありました。
 隣の川尻には、津幡川をせき止めて、田んぼへ水を流している川尻用水路がありました。幅2m弱ほどの水路で、周辺よりも高い位置を流れていました。

川の管理のしくみ
 舟の通路、排水路、用水路の機能を持つ川は、地元で大切に管理されてきました。川の泥浚いや、藻引き(川に繁茂する水草の除去)などは、部分的には田んぼの関係者がしていましたが、年3回ほどは「総人夫」で部落全員総出となって作業しました。「人夫」とは、部落で人手を必要とする作業に出る人、いわゆる日雇い労働者でしたが、行事を指す言葉でもありました。「今日は人夫の日や。」というと、川で作業する日でした。人夫は各班に1人とか2人が交代で割り当てられ、藻引きに限らず、土嚢をつめて馬が通れる小道を作ったり、水を通すための整備をしたりと、大体のことが人夫でまかなわれていました。
 部落全体で取り組む総人夫は、毎年3月5日頃と、お盆の前後、そのほかに1回の年3回はありました。このような年中行事は、毎年1月の初寄席(村の総会)において、およその日取りと予算が決められます。初寄席には部落全員が出席し、部落の区長さん、実行組合長、歩き(連絡係)、各班の班長さんといった新年度の役員が顔を合わせます。当時は部落戸数が8班に区分されていました。
 1回目の総人夫は、田植えの準備・段取りとして、毎年「田祭り」に合わせて3月5日頃におこなわれました。田植え前の用排水路の掃除がおもな仕事で、川に溜まった泥を鋤簾で浚います。取り除いた泥は、田んぼに客土しました。貝や藻が混じる川の泥はとても良い肥料になりました。
 お盆前かお盆過ぎには、前川の川掘りがおこなわれました。稲刈り前の準備として、舟の運航の妨げになるものを除去します。川底を深く掘り下げる必要があるので、前川の水をせき止めて水をくみ出し、川底が見える状態で作業しました。各自が責任を持って、自宅前の川底に溜まった泥を掘ります。泥上げを十分にしないと、川上の家まで舟を通せなくなるので、支障を来さないよう注意しました。掘り取った泥はそのまま道路の端にしばらく置いて乾かし、稲刈りを終えた田んぼに入れました。空き地に積み置きして必要時に使う人もいました。
 川の藻引きも、年に一度は総人夫でおこなわれました。20~30人での作業になります。総人夫以外でも、藻引きは5月からお盆くらいまでの間に2~3回、関係者が必要に応じて自主的におこないました。また、田植えや稲刈り時期など人手のいる時は、他の地域から人夫が応援に来ることもありました。

水草の記憶
 たいていの川には、フサモやエビモなどの沈水性の藻がありました。エビモが繁っているところには、夏場にゴリがたくさんいるので、ゴリ捕りのポイントにしていました。黄色い花を咲かせるアサザは、川底が砂質のところにたくさんみられましたが、潟端ではそうした場所は限られていました。ヒエのムシロと呼んでいた水草は田んぼにあって、引っ張ると途中でちぎれて残るので取り除くのに苦労しました(ヒルムシロ属の一種)。
 とろろ昆布みたいな粘りのあるジュンサイのような水草もありました。それは友達に教えてもらって、太田川の上の支流の良場という場所(川がカーブしたところの上流側)にあることを知りました。わずかな範囲でしたが、そこは胸の深さくらいある細い川で、川底は砂地で固く、水がとても綺麗でした。ほかの川ではあまり見かけない、気持ちの悪い腹の赤いイモリが何匹もいましたが、魚はメダカとかモロコくらいと少し変わった場所でした。ジュンサイは仏教の精進料理で貴重なものとされ、滅多に食べることはありませんでしたが、小学校の頃に親を喜ばせようと採って帰ったことがありました。アクスイ川の河口から100mほど上がったところには、ミズオオバコが水際に生えいたことがありました。アクスイ川は普段は穏やかですが、雨が降ると水かさが増して流れが速くなる川でした。ミズオオバコは耕地整理されてからも少しの間は残っていたように思います。
 川にはヒシもありました。ヒシについては次号に詳しく掲載する予定です。

第12話 自然を読む力

 (通信かほくがたvol.15-4(2010年3月発行)掲載記事)

河北潟を巡った物々交換
 潟端は藩政時代に開村した部落で、河北潟の東縁を開墾してできた水田地帯にあります。潟端の暮らしは稲作が基本でした。逆に河北潟の西側、日本海に面した砂丘地では稲作は難しく、漁業が盛んでした。そのため、潟端など河北潟の東寄りにある部落と、旧内灘村の大根布、宮坂、西荒屋、室、内日角とは昔から物流・交流があったようです。
 潟端から内灘へは、米、屑米、藁、薪、灰などを、反対に内灘からは、魚貝類、昆布、スルメイカ、当時は作れなかったスイカやサツマイモなどをいただきました。地元では手に入らない物を交換、売買して、お互いに生活の足しにできました。
 4月下旬頃になると、日本海では鰯がたくさん獲れ、内灘の人たちが舟で運んできました。内灘から河北潟を渡って来た舟は、川を遡って取引する家の前まで来ることもあれば、部落西側にある"どんど"(部落から流れてくる水をせき止めていた場所)に舟を着けて商いをする人や、潟から川に入って間もないところで上陸して売り歩く人もいました。天秤を担いだ内灘の人が、「鰯いらんかいね。」と大声をあげて売りに来たものです。
 内灘から運ばれてきた鰯には砂が一面につけてありました。鮮度を保つために塗された砂で、鰯は新鮮な状態で届きました。そうした鰯しか見たことがありませんでしたので、潟端では誰もが「鰯には砂がついているもの」と思っていました。
 内灘の人たちは、冬になると北海道へ出稼ぎの漁に出ましたので、北海道の昆布やスルメイカなども持ってきてくれました。とくに珍しいのがホタテの干し貝柱で、高級品でなかなか口に出来ませんでした。家の向かいに内灘の舟がつながれていると、内灘から人が来ていることがわかり、その家の知人や親しくしている人たちが集まりました。囲炉裏端へ上がり込んで、北海道の話をきいたり色んな話をしたりと交流が賑やかにありました。話が弾んでくると、北海道民謡の江差追分やタント節を習って謡うこともありました。
 潟端では、米一升でよく取引がおこなわれました。当時は地主に年貢を納めていましたので、目立たないように小売りしていました。米は収穫後に米選機に流して、屑米と選別します。金網の幅を調整して、小さいサイズの米(屑米)を下に落としました。一等米を用意するときには金網の幅を広くして、大きいサイズの米だけが残るようにします。そのような選別方法なので屑米の質は様々でした。方言で「ダゴノモン」というと屑米のことで、誰にでも通用する言葉でした。屑という言葉からは不要な物というイメージを受けますが、屑米は貴重がられたものです。屑米を石臼で挽いた米粉を、小さい団子にして押しつぶしたものを小豆で煮込んだお汁粉は、非常に美味しくてお腹もふくれました。手間の掛かる汁粉はお婆ちゃんがつくってくれる有り難いものでした。
 潟端は稲作のおかげで、日常煮炊きするときの燃料にする藁や籾殻がたくさんありました。また、囲炉裏端で藁や薪を燃やしたり、竃でご飯を炊くときに籾殻を燃やすので、非常にたくさんの灰がたまりました。一方、砂丘地側は水田が少ないので、潟端の藁や籾殻、灰が必要とされました。藁や灰は、畑の肥料にもなりますが、サツマイモなどの苗にかぶして砂で焼けるのを防いだり、湿度を保つのに使われたようです。砂丘地の松の葉は燃料にされましたが、松葉を燃やしてとれる灰は少量でした。

大事にした言い伝え
 当時は現在のような交通網が発達しておらず、一般には舟以外は人力の荷車しかありませんでした。潟端から内灘まで行くには、陸からは遠回りになるので、舟のほうが楽でした。ただ潟端の舟は、稲を運搬するために作られた舟でしたので波が入りやすく、潟端の舟で内灘へ行くことは稀でした。潟端でも浜通いする人(内灘へ行商に行く人)が数名いましたが、そうした人たちは内灘の中古品の舟を買って使っていました。内灘の舟は舳先が上がっているので、多少波があっても大丈夫でした。
 西荒屋の二ツ屋彦次郎さんとは、むかしから坂野家と交流がありました。西荒屋から舟で河北潟を渡ってきたときに、坂野家でよく一服しましたが、「河北潟に吹く風は時計の針周りで、北風が吹いたら、山瀬風になり、そして下りの風にまわる。漁をするときや潟を横切るときの知恵だ。」と、よく語っていました。潟端では、北風のことを“北風(あいのかぜ)”、東風を“山瀬風(やませ)”、西風を“西風(まにしにのかぜ)”、金沢の方から潟端へ吹く南西の風を“下りの風(くだりのかぜ)”と言っていました。内灘の人は風向きが悪くても、帆を操る技術を持っていましたので、斜め向かい風が吹いている中でも上手に帰って行きましたが、追い風を利用すると楽に戻れるようでした。「北風が吹いて、山瀬風になったら、帆を上げて帰らなダッチャカンワ(方言:帰らなければいけないわ)。」と言って潟端を出発するのでした。
 八十八夜を過ぎると(立春から数えて88日目)、潟端では霜が降りないといわれました。水苗代の時は、霜が降りたら水をかけないと苗の先が白く枯れるので注意が必要でした。また、「霜は3日は続かない、3日目の夕方から雨となる、ただし3日で雨が降らない場合は4日目も晴れるが、夕方から下りとなる。」という言い伝えがありました。そのほかにも天気を予測する謂われが色々あります。「朝虹を見て川を渡るな、雨になる。」、「雨壺が(西南の空)が暗かったら雨となる。」、「うろこ雲が現れたら明日は雨」、「烏の水浴びを見たら、明日は雨」、「太陽が日笠をかぶったら、明日は天気が悪い」、「月が笠を被っていたら、天気が悪くなる」、「山が綺麗に近く見えたら、風が強く吹く。」など、小さい頃から親に聞かされました。情報の少ない時代でしたので、このような知恵を大切にしました。

自然現象
 「波静かなる 河北潟 岸の田の面を 眺むれば 加賀の社の大神の 深き恩恵を 思うかな。」、通学していたときの中條小学校の校歌2番です。校歌にもあるように河北潟は穏やかな湖でした。潟端は低地にありますが、家々が水に浸かる危険はありませんでした。大雨が降って津幡川が氾濫したときは、潟端でもとくに低いフゴ地帯の水田(もともとフゴのあった場所の水田のこと。フゴ:潟から切り離されてできた沼地・小さな湖)は水浸しになりました。粘土質で水はけが悪く、1週間も水につかったこともあります。稲が水につかると萎縮病にかかり、不作となりました。
 天候の悪い時は、荒波と風の唸る音が日本海の方から聞こえました。日本海の海鳴りといわれるものです。海鳴りはいつも、潟端から見て金石のほうから聞こえ出し、それが次第に能登半島の方へ北上していきました。30分も同じところで海鳴りがすることもあれば、2~3時間で行ってしまうこともあり、半日の間、ゴーゴー、ゴーゴー唸っていることもありました。最近は騒がしいせいか、海鳴りが聞こえなくなりました。
 また、河北潟の背後にみえる内灘砂丘の上では竜巻がよく起きていました。潟端から見ると、金石から宇ノ気のほうまで日本海側が広く見え、端から端までの間に、5本も6本も竜巻が同時に数えられることもありました。金石港ができた頃からか、竜巻がまったく見られなくなりました。

第11話 大切なヨシ

(通信かほくがたvol.15-3(2010年2月発行)掲載記事)

葦で葺いた屋根
 当時は萱葺き(ヨシで葺いた屋根)の家が多く、ヨシは大切な材料でした。萱葺き屋根は年月が経つと、材が腐ってくるため、新しい材と取り替える必要があります。潟端では、だいたい10年に一度の割合で葺き替えましたが、屋根全体を一度に葺き替えることはなく、片側ずつ交互におこないました。棟(屋根のもっとも高いところ)を境界にして片面全体を一度に葺き替え、その5年後くらいに反対側の屋根を葺き替えます。
 屋根葺きは大勢で協力する作業です。人数としては、屋根の正面側に1人と後方に1人、横側に4人くらいと、その手元で手伝いする人が4人くらい、ほかに2人ほど雑用にまわる人がいましたので、合計12~13人くらいが必要とされました。また、やり方によってはバランスが悪くなったり、長持ちせず穴が空いて朽ちたりしますので、ベテランの力を頼りにしました。とくに屋根の角部分を仕上げるのは難しく、角を葺く職人が一番大事でした。潟端には、屋根正面側の角葺きの巧者である橋本宗太郎さん、後ろ側は中村茂吉さん、久保徳次郎さんという腕のある人たちがいて、この方々の都合を聞いて屋根葺きの日取りを決めていたようです。日が決まると、その一週間ほど前から稲架木で足場を組みはじめました。
 毎年、梅雨が明けると、部落の2~4軒の家で葺き替えがおこなわれます。「どこそこの家が屋根葺きするがやと。」、そんな話が伝わってくると、その親類の人と道で会った時には、「おはよう。また人手がいる時はいうてくれ。」などと、挨拶代わりに声をかけ合ったものでした。
 葺き替えは1日で終わらせるつもりで早朝から段取りし、たいてい夕方遅くまでかかりました。一日がかりでするため、昼食は葺き替えする家が準備します。作業に当たる人たちは煤で汚れましたが、座敷に上がってお昼をいただきました。竈や囲炉裏から立ち上る煙で、柱や屋根材などが煤けており、とくに煙出しのあたりで作業する人は真っ黒になりました。屋根材などが煙で燻されることは悪いことではなく、防虫、防腐、防水の効果がありました。
 葺き替えにより、使い古したヨシ屑がたくさん出ます。葺き替えの仕事はそれらを舟に積み込んだら終わりです。1軒の屋根片面で舟一杯分くらいの屑がでました。ヨシ屑は、畑の肥料になるので、だれも粗末にしませんでした。畑の空き地に1~3年ほど積んで置くと、どの堆肥よりも効き目があると重宝がられました。
 昭和初期の潟端の部落92軒中、萱葺きの家は50~60軒あったように思われます。その頃にも瓦で葺いた家はありました。戦後になって建て替えがすすみ、瓦屋根が増えていきました。

葦場(よしば)
 ヨシは自然に生えてくる植物ですが、湖岸のヨシ原を「葦場」として各家で管理していました。屋根葺きに使うヨシは、それぞれ所有する葦場から調達します。各家では屋根葺きに備えて、毎年少しずつヨシを蓄えました。ヨシが足りない場合は、瓦屋根の家からヨシをいただくなどしました。水分のある状態では使えないので、ヨシが枯れた11月頃に刈り取ります。刈り取ったヨシは束にして、家の風雪が吹き込んでくる場所に立てて雪囲いにしました。一冬そのように使ってヨシを十分に乾燥させ、3月21日のお彼岸の頃を過ぎてから、天気の良い日を見計らって雪囲いを外し、アマ(家の二階の物置)や田んぼの空き地に積み上げて保存しました。
 葦場の所有数は各家で違っており、坂野家では3面持っていました。葦場1面の単位は、地域によっても異なるようですが、潟端ではおよそ5m四方で、その横の長さは、ちょうど潟縁の田んぼの縁から、潟に向かってヨシが生えているところまでです。実際には5~7mくらいあり、舟の出入りや波風による浸食で、葦場の縁はうねっていました。少し深いところに株状に孤立するヨシもありましたが、それは管理しませんでした。葦場の境界にはむかしの杭がありましたが不明瞭で、刈り取りの時は、川で舟を動かす時に使う長さ5mほど(2間半ほど)の棹を目安に置いて作業しました。
 葦場のヨシは毎年きれいに刈り取りました。それはたいしたもので、人様が刈り残したようなところも最後は全部なくなります。ヨシを刈り取る時は、葦場まで舟で行き、刈り取ったヨシを舟に積んで運びます。葦場1面分のヨシで、舟の半分ほどの量になり、2面ほど刈り取れば舟が一杯になりました。また、葦場3面あれば1軒の家で使う分が足りるほどでした。「葦場は絶えず管理しておかないと、来年ヨシが生えないぞ。」といわれ、非常に大事にしました。よく手入れされた葦場では良質なヨシがとれました。
 葦場の地面は田んぼよりも少し低く、潟の水面よりも少し高い位置にありましたが、河北潟の水が増水すると、葦場まで水が上がり、そのときにゴミも一緒に流れ込んできました。潟の水が引くと、葦場にゴミが残されるので、冬も時々見廻りをして、ゴミを取り除きました。ゴミといっても現在のようなビニール類はなく、藁の腐ったものとか下駄や草履、空き瓶などです。とくに薬瓶(メモリのついた飲み薬用の空瓶)が大量に流れ着きました。ゴミ拾いの時は、刈り取りの時と同様、舟で潟に出てから葦場に入り、舟にゴミを乗せて運び出しました。燃えるゴミは川畔で乾かしてから燃やしました。
 ヨシは、基本的に潟端のあたりよりも、アクスイ川より才田側(西側)のほうがりっぱでした。土質や塩分の違いからか、八田や才田側のほうがヨシの生育に適していたようです。
 葦場は河北潟干拓事業・周辺排水改良事業をする時に、国が買い取りました。葦場を持っている人たちは、その時にみんな放棄しました。ただ、その頃はもう萱葺き屋根の家は5~6軒程度で、ほとんどが瓦屋根に変わっていたと思います。

そのほかの用途
 現在みられるヨシは、ひ弱で風が吹いたら折れそうに見えますが、当時のヨシはりっぱで、屋根葺き以外にも活用されました。ひとつは壁の木舞(壁の下地の材料)です。良質なヨシは、壁屋さんが買いに来ましたが、潟端ではヨシを売る家は4~5軒程度で、たいていの家は売るほどの余裕はなく、自分の家の屋根葺きに使う分として大事に取っておきました。ヨシをカラムシの紐で編んだ葦簀は、縁側に立てかけて日除けに使ったり、梅干しを干すときなどに役立ちました。
 また、竈や囲炉裏で火を焚くときの燃料としても重要でした。これには籾殻や藁も使われましたが、藁がすぐに燃えてしまうのに対して、乾いたヨシは5~10分燃えることから好まれました。1m以上あるヨシは燃やさずに屋根葺き用に残しました。

第10話 潟端の飲み水

(通信かほくがたvol.15-2(2009年10月発行)掲載記事)

 潟端の部落がある河北潟東の平野部一帯は、藩政時代以降に開墾された開田地帯で、土地の低いところです。低地にある潟端では、生活用水の確保に様々な工夫がなされていました。
 地下水を汲み上げる井戸というと、一般的には飲料水の利用が想像されますが、潟端の井戸では鉄分が多く含まれた飲料に向かない赤茶色の水が出ました。そのため飲料用には、山側の高台にある井戸から導水した水が使われていました。その水は、各家の炊事場にある井戸(水を溜めるための石桶)まで引き込まれており、部落全戸にうまく供給されていました。
 幼少の頃は、昔の人が飲み水で苦労した話を聞かされ、常日頃水を大切にしていました。正月には炊事場の井戸のところに鏡餅のお供えをして感謝しました。

油水
 赤茶色の井戸水のことを、現在では赤水と言いますが、かつては油水と言っていました。
 油水はとくに部落中程にある加賀神社より西の河北潟に近い側に多く出ました。油水が出ない井戸もあり、潟端の辺りには水脈が2つあると言われていました。また、加賀神社より東側では井戸が1つしかなく、井戸を掘っても水が出ないという言い伝えがありました。
 井戸から汲み上げた油水は基本的に使い水にしました。飲料に向かないものの効用があるといわれ、油水を沸かして入浴すると、汗疹などがすぐに治りました。

元井戸から各家へ
 潟端では、近隣の南中條や太田にいくつか井戸を掘らせてもらっており、それを元井戸として部落まで導水していました。南中條や太田地内では良質な井戸水が出ました。
 潟端には部落中央を横切るように前川が流れています。そのため、前川より北側の家々には潟端より東北東側にある南中條から、前川より南側の家には部落南東側の太田から水が引かれていました。前川の北側にある坂野家には、南中條の高台にある元井戸から水がきていました。軟水で口当たりの良いおいしい水でした。
 地中を通る竹樋で、元井戸から部落内の分水井戸へ、そして分水井戸から各家の中にある井戸まで配水されていました。分水井戸というのは、元井戸から引いてきた水を溜める貯水タンクのようなものです。当時の部落の軒数と現存する分水井戸の数から推測すると、分水井戸はおそらく部落内に5つほど存在し、1つの分水井戸からだいたい15~16軒の家に配水されていたと思われます。この分水井戸には各家へ配管するための鉛管(分水管)が取り付けられていますが、その鉛管の位置(高さ)は配管される家の井戸の高さと関係していたようで、配水量がうまく調整されていました。
 水は炊事場まで引かれていたので、日常便利に使うことができました。かつては炊事場のことを"下流し"、"高流し"と言っていました。下流しは、玄関横にあるコンクリートか漆喰(石灰と砂)の土間のことで、そこに引いてきた水を溜める井戸(石桶)がありました。その隣が高流しで、下流しより一段高いその場所には竈が置かれました。高流しの窓のところには洗った物を置くことができました。
 文献には、1832年潟端出身の斉藤不染氏が、飲料水の悪さや疫病が流行したことを憂えて、南中條八幡神社横から井戸水を引いて、20数戸に配水したことが記されています。先人の苦労や努力のおかげで、昭和初期の潟端の部落92軒が飲み水に困らない生活を送ることができていました。高台の元井戸から各家へ飲み水を供給する引水式の井戸は、昭和32年に簡易水道ができるまで使われていました。

水の思い出
 中條小学校の近くにある南中條の中畠さん宅には、水が湧き出ている井戸が家の外にありました。水がとろとろと井戸から溢れては小川へ流れおちていました。冷たくて非常においしい井戸水でした。小学校から近いので5~6人でさーっとこの家まで走って、水を一杯のみに行ったこともありました。中條小学校にも井戸がありましたが、その井戸水は普段飲んでいる味と違って硬水のようでした。
 水を持ち忘れて農作業に行ったときなどには、田んぼの水を飲むこともありました。田んぼの水面には油膜のようなものが浮いていましたので、檜笠でその油膜を避けて一口二口渇いたのどを潤しました。また、舟で潟へ遊びに行ったときに、潟の水を飲むこともありました。水が綺麗だったのか、お腹が痛くなることはありませんでした。
 終戦前後の暮らしは、生活水準が低く、川で汚れを洗い流したり、鉄鍋釜の底にこびりついた煤などを川砂で洗うなどしていました。不衛生なことから川で洗うのを遠慮する人たちは、川畔の路地に洗い場をつくっていました。活発な家は川縁で洗いましたが、だんだん少なくなっていきました

第9話 潟端の漁の終わり

(通信かほくがたvol.15-1(2009年7月発行)掲載記事)

 河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

ボラの大漁、うがい漁の終幕
 潟端のくらしは米づくりが主体でしたが、農閑期には川や潟で漁をして、日々の食事をまかなっていました。
湖岸に寄りついた魚を捕る“うがい漁”は、毎年8月の終わり頃に盛んでしたが、農薬が使われ出してから行われなくなりました。うがい漁を止めた1~2年くらい前に、ボラが大漁だったことがありました。
 いつの年か定かではありませんが、8月29日のお祭りの前夜のことでした。一通り漁をして、「魚も捕れたし、そろそろ帰る頃やなあ。」と思っていると、ボラの群れに出会しました。ボラの大群が逃げ回って、10~20匹のボラがあっちこっちの水面から噴水のように跳ね上がるのです。跳ね上がったボラが落ちたときに、頭や背中、肩や腰などにぶち当たりました。うがいの中にも入ってきて、ゴフゴツと大きな手応えがあった感触がいまでも残っています。一度に5~6匹のボラがうがいの中に入り込んできて、1回の漁で一人15~20匹ものボラが捕まえられました。もう一回やろうと、続けて漁を行いましたが、今度は誰も捕れず、ボラの群れは通り過ぎていったようでした。大漁の喜びで捕れた魚の重さも苦にならず、その日は皆気持ちよく家路につきました。
 翌朝になると、昨夜のボラ大漁の話題で隣近所盛り上がっていました。最もたくさん捕まえた人のボラの数は、25匹だったとの話でした。「ボラが一晩の漁で、一人平均17~18匹も獲れたことは覚えがない。」と、お年寄り達が驚くほどで、まったく不思議な出来事でした。漁に出ていた人数は忘れましたが、20人ほどはいましたので、一人15匹捕った計算でも、300匹のボラが獲れていたことになります。
 ボラは大きさによって呼び名があり、一年ものはチョボとかロンチョ、全長25cmくらいの二年ものはイセゴイとかニサイ、体長30~40cmのものをボラ、体長50~80cmの大きなものは外洋にいて河北潟では見かけませんでした。
うがい漁では、フナやナマズ、ボラ、スズキなどが捕れましたが、最後の方には大きな蛙(ウシガエルかヒキガエル)が捕れることが増えました。蛙を食べる習慣がありませんでしたので、うがいの中に入っていても残念なもので、よく見ずに陸の方へ放り投げていました。

農薬と除草剤の普及
 河北潟の近くに位置する潟端は、泥地で米づくりに適した環境ですが、農薬がない時代は、ウンカの害(稲の液を吸い枯らす)と、天候不順で発生するイモチ病に大変苦心しました。当時の稲の品種は「農林一号」(1931年・昭和6年に稲で初めて農林登録された)と呼ばれ、多収量品種で美味しいお米でした。戦後は、「越路早生」という品種が普及し、これは食味が良いうえ、病気や倒伏にも強いので喜ばれました。
 越路早生と同じ頃、病虫害に対する農薬「BHC」(ベンゼンヘキサクロリド(日本の農薬登録期間:昭和24~46年。毒性・残留性があることから日本全国で販売禁止される))が入ってきました。当初は手動式の道具で農薬を撒いていました。そして、BHCを使い始めてから6~7年後くらいに除草剤が入ってきました。
  除草剤が入る以前、田んぼの草で苦になったのは、ヒエ(イヌビエ)とガメザラ(ミズアオイ)でした。取っても取っても生えてくるガメザラは一番の難敵で、これが除草剤でなくなったので楽になり、田んぼがすっきりしました。また、砂が多く混じっている痩せ地の田んぼでは、ガメザラよりもミツカド(カヤツリグサ科のミズガヤツリ?)という雑草がたくさん生え、苦労の種でした。ミツカドは地下茎をのばして塊茎(そこからまた新芽を出す)をつくるので、草を抜くだけでなく、土の中に残る塊茎も取り除きました。6月の草取りのときは、腰にイコ(竹籠)を付けて作業し、その中へ入れました。イコにたまった塊茎は、他所の田んぼや水路に拡がらないよう各自で燃やしました。

潟や川の魚を食べなくなった時
 農薬により虫がつかなくなり、除草剤の使用で草取りの手間が減り、その後農機具の導入で牛馬が使われなくなりました。小型耕耘機を使い始めたのは昭和32年頃です。そうして段々と米が楽に穫れるようになっていき、嬉しく感じていました。
 しかし、その一方で、毒におかされた魚が現れるようになり、身に危険を感じていました。除草剤が使われ出した頃から、まず川にたくさんいたヒルが2~3年の間にいなくなりました。それまでは川に入るとすぐに、ヒルが何匹も寄ってきました。足に巻いているキハンの間から入りこまれ、よく血を吸われたものです。たくさんいたヒルが姿を消したのには驚きました。そして、メダカも見られなくなりました。メダカは大量に死んで、川の淀んだところに死骸が集まって浮かんでいたこともありました。畦に穴を空けるので厄介がられたザリガニ(アメリカザリガニ)も一時期たくさんいましたが、除草剤がよく使われるようになった頃から目立たなくなりました。結局ザリガニがいたのは終戦から2~3年の短い間だけでした。たくさんいた頃は、とくに排水用の小川にみられ、南蛮(唐辛子)が散らばっているみたいに赤いのが見えました。ライギョは終戦後にみられるようになりましたが、ライギョが増えてきた頃、フナやメダカなど他の魚が少なくなりました。そしてその後、変形したライギョが現れるようになりました。最初は、機械か何かに挟まったのだろうと思っていましたが、農薬による影響ということがわかってきました。ちょうど河北潟の干拓事業がはじまった頃と重なり、背骨が曲がったライギョとか、片目が白くなっていたり、鱗にカビが生えているようなフナなど、奇形の魚が目立ってみられました。奇形の魚は動きが鈍くて簡単に捕まえられるため、捕りに行く人もいましたが、捕ろうという気持ちになれませんでした。
 気味の悪い姿をした魚の話が、人から人に広まり、残留農薬の問題も話題となって、魚を食べない方が良いという風潮が生まれました。川に魚がたくさん上がってきても、見て見ないふりをするようなもので、網を持って出ることもなくなりました。魚を捕る人はほとんどいなくなり、淡水魚を全面的に食べなくなりました。

第8話 潟端の川での漁Ⅱ「漬(つけ)」

(通信かほくがたvol.14-4(2009年3月発行)掲載記事)

 今から50年ほど前まで、潟端では河北潟へ流れる川を利用して、“漬(粗朶漬)”漁をおこなっていました。川に数十本の粗朶木を漬けて、魚が潜む場所をつくり、そこに寄りついた魚を獲るというものです。漬漁は呼び方や漁法が多少異なりますが、河北潟の周辺地域にいくつか存在したようです。たとえば、大きな津幡川が流れる川尻村には、使い古した舟に粗朶木をつめこんで、その舟をひっくり返して川へ沈めておく、通称「箱漬(はこづけ)」漁がありました。

漬の場所
 潟端では基本的に自分の所有する田んぼの川畔に“漬”がつくられました。田んぼの持ち家一つにだいたい平均2,3個の漬がありましたが、人に貸している家や、共同で所持する漬もありました。
 漬に適した環境は、川の水位があまり変動せず、潟の水が引いたときに、淀みとして残る場所です。そして舟が通るのに支障のない川幅が広いところが選ばれました。当時の漬があった場所を思い返してみると、大フゴの川に2つ、太田川に5つ、北横川に1つ、南横川に2つ、ギ割川に2つ、百石川に5つ、オソ川に2つのおよそ19ヵ所が数えられました。そのほかアクスイ川、二百石川、五百石川にもいくつかありましたが、そこは他所の地内の人たちの漬で、地主に許可をもらって使われていました。また、荒川より北側は川尻村の土地で、この辺りにはみられませんでした。
  部落の近くにも魚はたくさんいましたが、生活排水が直接流れ込むところの魚を捕って食べることはしませんでした。漬があるのも部落から少し離れた下流側です。下流でも河口近くや潟岸は、水深が浅いためできませんでした。鋤簾などで泥揚げされる川のほうが深く、潟の水が引いたときに川に残った魚が、隠れ家になる漬に入ってくるのでした。

漬のつくり方
 当時の川は、現在の車道のようなもので、舟の通行路となっていました。とくに稲の取り入れ時期には舟が頻繁に往来するため、漬が通行の妨げにならないよう注意が必要でした。
 川幅が1間半~2間(約2.7~3.6m)のところに漬をつくるので、舟の通り道をできるだけ空けるために、漬をつくる側の川岸を幅3尺(約1m)長さ2間半ほど削り込みました。つぎに川底がほかより少し深くなるように掘ります。そして川岸から1間くらいのところに杭を2本打ち込み、その杭と川岸の間に粗朶木を漬けていきます。粗朶木は切り口をそろえて並べ、まず10本、つぎに枝先を逆向けにして10本ほど漬けます。あと2回繰り返し、40本ほど漬けたら、刈り取ったマコモや稲藁を上に被せて日陰をつくりました。さらにその上に粗朶木を交互に2,3本のせて、漬けた粗朶木が浮き上がらないように、上から杭木で押さえ、最初に打ち込んだ2本の杭に縛って出来上がりとなります。また、削り込んだ川岸がこけないよう(崩れないよう)、粗朶を組んで護岸する人もいました。

粗朶木の樹種
 川に漬ける粗朶木は細枝がたくさんでている落葉樹を使いました。樹種はエゴノキがもっとも良く、地元では“チチャノキ”とか“チャガマノキ”と呼んでいました。幹の太さは手に握れるくらいが丁度よく、長さは2間~2間半(約3.6~4.5m)ほどにそろえました。チチャノキの材質は堅いので、鎌の柄や鉈の柄にもなりました。クヌギも漬に使われることがありましたが、クヌギは枝が折れやすく、水に浸けると重たくなるので好まれませんでした。またヤナギを使う人はほとんどいませんでした。
 潟端には木がほとんどありませんでしたので、山を持っている中条や太田にいる親戚を頼りにしました。漬で魚が捕れたときは、粗朶木をもらったお礼に、ピチピチ跳ねる活きの良い魚を持っていきました。

漬漁
 漁期は基本的には、秋の取り入れが終わって霜が降りる頃から、3月5日頃の田祭りまででした。潟の水位が下がり、魚が漬に入ってくる頃を見計らって揚げにいきます。だいたい月に1回くらいの頻度でした。漬を揚げるときは、まず魚が逃げないように、周りを袋網などで囲みます。水中にある粗朶木を揚げるのは大変なことですが、カンコという良くできた道具がありました。カンコで粗朶木をひっかけると、跳ね上げるようにして川畔に揚げることができます。そして粗朶木に隠れていた魚が慌てて逃げ出すところを前掻で捕まえ、残った魚を袋網に追い込んだあと網を引き揚げました。穫れた魚を盥に移して、粗朶木はまた元の状態にもどしました。漬の粗朶木が、2年ほど経って古くなったら、5~6本追加したり、新しい粗朶木と取り替えてやりました。
 漬で穫れる魚は大物が多く、フナは15cmくらいが10匹ほど、ナマズも50cmくらいのものが2~3匹入っているのが普通でした。終戦後は50cmくらいのライギョが入ることもあり、その時は、ほかの魚は穫れずに不漁でした。
 戦時中の物がないときは、漬でとれる魚が大変有り難いものでした。昭和27年以降におこなわれた耕地整理で多くの川が車道に変わり、漬もなくなっていきました。

第7話 農閑期の川での漁

(通信かほくがたvol.14-3(2009年2月発行)掲載記事)

 潟端には当時、用排水路や稲舟のとおる川が20数本も流れていました。その川はすべて河北潟に通じていましたので、塩水の混じる汽水にいる魚もみられました。冬のフナやアマサギ(ワカサギ)、夏のモロコやゴリ、コイやボラは稀に、そのほかカワギス(マハゼ)やナマズにドジョウなど、川の魚は潟端でくらす人たちの食を豊かにしてくれました。とくに冬のフナは身が締まって美味しく、最もよく食べられました。カワギスは川でも河口部のヨシがあるところに多くいました。叩網漁をしたときに、網に異常に入ったこともあります。終戦頃までたくさんみられました。ハネ(スズキの小さいもの)が、10匹から20匹の群れをなして、川に上ってくることもありました。
 潟端のくらしは米づくりが基本でしたが、農繁期以外の秋から冬にかけては、漁をして生活の足しにしました。晩秋の前掻漁、逆網漁、うろ突網、寒中のカテヤブリ、晩夏の叩網漁など、川漁にも色々な漁法があります。

フナの手づかみと、前掻漁
 秋、稲架干しした稲の取り入れが終わると、暇を見つけては川へ鮒(フナ)とりに出ました。
水が冷たくなる頃で、動きが鈍くなったフナは、泥の中や藁屑とか草木の根があるところに潜むようになります。とくに川縁にある立ち木(ハンノキやダゴノキなど)の根本あたりは、水流で土が洗われて窪みになっており、毛根が出ていてフナの良い隠れ場所でした。そのような所にいるフナはたいがい、草や根に頭を突っこんで、後ろ半分が丸見え状態になっているので、魚の背後からそっと手づかみすることができました。当時は水が澄んでいたので、魚を見つけて魚の動きを見ながら捕まえることができ、楽しくてやり甲斐がありました。フナの手づかみができたのは、戦前の子供の時だけでした。その頃は1時間もすると、「イコ」1升がいっぱいになるほどフナが捕れました。フナの手づかみは子供が主役で、たくさんとって親を喜ばせようと張り切っていたものです。このようなことは田んぼで除草剤が使われ出した頃からなくなり、フナも姿を見せなくなりました。
 川底の泥の中に潜っているフナ(小鮒)を捕るときには、前掻という漁具が使われました。フナが潜んでいそうな場所を探して、前掻で川底を浚うようにひいて泥ごと捕ります。水面に泥底から泡が2、3ブツブツ出ていると、フナがいると予想でき、その泡の30cmほど向こうから手前にすっと浚うと上手くとれました。熟練した人は、すばやく引き上げ、泥を掬わず魚だけを捕ることができますが、下手にすると、魚は逃げて泥だけがたくさん入ってしまいます。より上手く捕れるよう皆それぞれ努力していました。腰に付けたイコに魚を入れる姿は、遠くから見てもよくわかるもので、魚を盛んにひろっていたり、なかなか捕れないでいる様子を見て参考にしました。

逆網漁
 前掻漁はふつう、魚が捕れそうな川に一人で歩いて行き、早朝から2時間程度で戻る人もいれば、半日頑張る人など、自由におこなわれるものでした。逆網漁は、前掻漁を基本にしたものですが、数人で協力しておこないます。逆網漁ではまず、袋網を2張りと、捕った魚を活かす直径60cmほどの盥などを舟に積んで、舟で目的の川に向かいます。川を下って河口に舟を置いた後、そのすぐ川上に網を張ります。もうひとつの逆網に使う網は、さらに10mほど上流の河畔にたたんで置きます。そして川の両岸に2人ずつ分かれ、様子を見ながら100~200mほど上流まで歩いていき、そこから川下に向かって前掻で魚を追い込んでいきます。基本的に先頭の2人は、魚が潜んでいそうな所を前掻で掬いながら、後方の2人は魚が上流へ逃げないように前掻の竹竿で突きながら進みました。そうして川下に張った網の手前10mほどに迫ったとき、河畔に用意しておいた逆網を素早く張ります。ここで一服。後は、網で囲われた川の中でしばらく前掻をつづけて撹拌し、袋網の中へ魚を追いやってから、網を引き上げます。漁は4人でするのが最適ですが、2人でもできました。時期は農閑期に入った10~11月頃ですが、嵐の後の増水した水が引いていったときを狙っておこなわれました。

氷割漁(カテヤブリ、カテワリ)
 前掻漁も逆網漁も、寒中にはおこないませんでした。厳寒期にはカテヤブリという変わった漁がありました。カテワリとも言いました。降った雪が川を埋め、氷が張ったときにおこないます。舟は使えなくなるので、ズリ(ソリ)に網と木箱(盥の代わりで小さめの容器)を乗せて運びました。ハサ木の頭をとがらせたような棒で、氷を割りながら川下へ魚を追い込みます。逆網漁と同じ要領でしますが、さいごの網で囲われた範囲は、氷や雪をすべて川から取り除いてから、魚を袋網へ追い込んでとりました。漁は氷が割れにくい状態の時は避け、川の水と、氷の間に間隙ができたときを見計らっておこないました。また、逆網漁もカテヤブリも百石川など水深の深い川でおこないました。
 漁に出なかった日に、お隣さんからアマサギをたくさんもらったことがありました。その日は天候が良く、10人程度の人がギワリ川まで漁に出ていたそうです。ギワリ川も水深1.5mほどある深い川でしたので、カテヤブリができました。そのときは川にたくさんのアマサギの群れが遡上していたようで、網が上がらないほど獲れたそうです。大漁で「万歳!万歳!」という声もあがりました。噂を聞いて5~6人の人たちが翌日ギワリ川へ漁に出ましたが、その方たちも1人5kgくらいの量がとれていたようでした。森下川へ遡上しようとした魚が、なにかあって遡上できずに、ギワリ川の方へ入ってきたのではないかと言われていました。

第6話 潟端のうがい漁

(通信かほくがたvol.14-2(2008年10月発行)掲載記事)

 潟端では、"うがい(うかい)"という竹製の漁具を用いた漁がおこなわれていました。うがいは水深が太股くらいまでの浅瀬で使用するもので、魚が入るように上から水底に被せ、中に閉じこめた魚を上の口から手で取り出します。

漁の時期
 うがいの漁をする時期は夏の終わりに限られていました。稲穂が固まる頃です。8月は夜のみ、9~10月は日中のみおこなわれました。真夏の水藻が生い茂っている頃は、うがいが素早く被さらず藻の隙間から魚が逃げてしまいますが、水藻の葉が枯れる夏の終わりになると、水中の茂みだけが残って魚が捕れやすい状態になりました(ニラモなどの葉先が切れてなくなるようです)。8月下旬の夜が適期で、うがい漁は夏の夜の楽しみの一つでした。祭りの前で忙しい時期でしたが、8月20日頃から天候の様子をみながら仲間で相談したものです。9月の稲刈りが始まると、だんだん大勢で行くことがなくなり、農繁期後もそれぞれ仕事があって、日中の午後しかできませんでした。10月になると潟の水温が下がってくるので、元気な人達5~6人だけが行っていました。

漁の方法
 うがい漁は部落全員誰でも参加でき、基本的には大人の男性でしたが、終戦のときには女の人も混じることがありました。小学6年生以上の子供も身内の人に連れられて一緒に参加することがありました。漁に出る人数は、数人の時もあれば20数人の時もあり、あまり大勢になると、あるいは少なくても魚を追い込むのが難しくなるもので、24~25人が丁度いいくらいでした。8月29日の秋祭りの前日は大勢が参加し、漁場を二組に分けておこなったこともありました。
 漁では指揮をとる人の存在が重要でした。部落には、世話好きでいつも快活な人柄のリーダー的存在の方が4~5人もいて、うがい日和の夕方近くになると、リーダーたちが集まって、場所やコースなどを相談していたようです。部落はずれの川下の橋の上に、うがいが2つ3つ並べられていると、「うがいがあるぞ!」と言って、行きたい人達は仕事を止め、急いで家へ帰っておにぎりなどを食べて準備し、うがいを持参しました。
 日没前に、リーダーに従って漁を行う場所へ入ります。潟岸の葦場は通らずに田んぼの河畔から河口に出ました。潟に入ると、葦場の縁伝いに歩く人達と、潟の沖の方に向かう人達との二手に分かれて移動し、直径100mあまりの円をつくります。沖の方へ向かったリーダー格から「はじめるぞ!」との声がかかると、皆一斉にうがいを動かしながら、沖の方から葦場の浅い方へ追い込むように前へ進みはじめます。うがいを水底と水底から30~40cmの間で上げ下げし、魚が中に入ってくるのを狙いました。葦場側にいる人はあまり動かず、待つようにしてうがいを上下に動かしました。漁場を包み込むように輪が縮まってくると、人垣が二重にも三重にもなります。手で押さえたうがいの竹に、コトコトと手応えがあると、魚が入ったことがわかります。中に手を入れて魚を捕まえたら、すぐに "いずみ"(腰にまきつけている縄で編んだバック)に移しました。「でっかいぞ。」、「わっ、でっかいなー、逃がすな。」などと声を掛け合って、大きな魚が入ったときは逃がさないように、近くにいる人達2~3人で助け合いました。
 このような方法で、少しずつ場所を変えて5~6回も行うと、誰でも5~10匹は捕れました。上手な人や当たりの時は20~30匹も捕れることがありました。「さ~、どうやらおかずも捕れたようやし、今夜はこれで帰るか。」と、リーダー格の声がかかると、漁は終了となります。辺りはすっかり暗く、明かりのない田んぼ道を、皆で気を付けながら帰りました。
 漁場は津幡川河口から部落の西の潟縁までで、夏のコースは2通りありました。ひとつは川尻用水路を歩いて、突き当たりの津幡川から潟へ出て、五反川河口から南へ向かって漁を行い、荒川から帰るコースです。漁をして漁場が荒らされた後の2~3日は入りませんでした。川尻の11号の川から潟端の辺りが一番良い漁場で、魚がたくさんいました。また、五反田の河口は、ガマやマコモ、ヨシなどがたくさんあって、いつも何か捕れる最高の場所でした。一方、百石川河口の方ではあまり魚がとれず、潟端より南で漁をすることはほとんどありませんでした。

漁で捕れた魚
 うがい漁で捕れた魚は、フナ、ナマズ、スズキ、ボラ、ライギョ、コイで、時々キスも入りました。ボラは40~50cmサイズのものでした。ライギョは終戦後にみられるようになった魚で元々いませんでした。そのほかウナギも入りましたが、竹の隙間を頭でこじあけるのでいつも逃げられました。また、夜中に女の人が調理するので、面倒をかけないよう小さい魚は逃がしてやり、20~30cm以上の大きい魚だけを持ち帰りました。フナやナマズは大きいのが捕れましたが、夏はあまり食べませんでした。家では女の人が漁の帰りを待っており、持ち帰った魚はすぐに囲炉裏やコンロで焼いて食べたり、明朝のおかずや保存用に塩漬けにしました。

第5話 魚が豊富な汽水湖、河北潟

(通信かほくがたvol.14-1(2008年6月発行)掲載記事)

 河北潟に干拓地ができ1980年(昭和55年)に大根布防潮水門が設置されるまで、河北潟には大野川から海水が流れ込んでいました。塩水と真水が混じる汽水湖で、いまと違って魚の種類が豊富でした。粟崎の北陸鉄道の鉄橋より下流の、機具橋よりもう一つ下流側に大野川逆水門がありました。日本海の水位が高くなり、稲作に被害が出るようなときに逆水門は閉められました。

逆水門での思い出話
 終戦から2~3年後のこと、年が若くて兵役から免れた男連中で、逆水門の少し手前まで舟で遊びに行くことがありました。夏の夕涼みに前川の橋で、「どうや舟で河北潟を通って大野川の河口の逆水門まで、舟遊び気分で見学に行くまいか。」と、話が持ち上がったのが始まりでした。舟2艘で10人、1泊2日の予定で出発。必需品を皆で相談し、家にある物を持ち合わせました。潟端の前川から太田川を出て、河北潟の西方、大野川を目指していきました。逆水門の近くまで2時間余りかかったと記憶しています。予備知識もない行き当たりばったりの旅で、キャンプする場所を決めるのに時間がかかりました。大野川の土手の空き地で野宿することが決まり、岸辺に舟を繋いで、川に入って遊びました。
 川底が砂地で固いので立つことができましたが、立っているとすぐに足裏へコチョコチョと小魚が入ってきました。足裏で押さえて捕まえてみると、川ゴリと違って口が大きいハゼ(マハゼ?)でした。逃がしてやりましたが、すぐまた別の魚が足の裏へ入ってくるのでした。水が綺麗で、水深1mくらいまで川底がよく見え、ミズガレイとかが泳ぐ姿がみえました。この辺りの川底には、茶碗がいくつも伏せてありました。ゴリを捕るために仕掛けられた物のようです。いたずらして茶碗の下に潜り込んでいる魚を捕まえたりしました。土手の株立ちしたヤナギの根元には、マッチ箱より小さいカニが2~3匹いました。空き地ではそれぞれが段取りよく、筵を並べて休む場所を作ったり、舟の帆で日陰を作ったり、家から持ってきた蚊帳を張る準備をしました。昼寝をしたり、家の畑から持ってきたネギを焼いて塩を付けて食べている者もいました。誰かが川で獲ったシジミ貝を、夜のお汁にすると言って洗っていたのも覚えています。持ち寄せた飲み物はキリンビール、三ツ矢サイダー、ラムネが数本、それを一口ぐらいずつ分けて飲んでいました。
 夜になって、日没頃まで日本海へ流れていた水が、逆流して潟の方へ流れていることに気づきました。「満潮になる時間かなあ。」と、ある一人が川の水を棹でかき回したときに、皆が一斉に「水が光る!」と声を上げて驚きました。棹で水面を動かすと、水滴ほどの大きさの粒が金色にキラキラと光り輝きました。あんな光景を見たのは初めてで、心にとまる出来事でした。(夜光虫による光の様です)
 蚊帳の中ではランプの明かりを頼りに、手回しハンドルでゼンマイを巻く最新型の蓄音機で、レコードを回したり、李香蘭(山口淑子)の支那の夜とか、寿々木米若の浪曲佐渡情話などを聞いて夜を過ごしました。

魚が寄りついた浅瀬の様子
 河北潟は広大で、場所によって塩水の入り具合が違っていました。天候や風向きによっても変わりますが、海と通じる大野川に近いほど塩分濃度が高く、川尻より北側は塩分濃度が薄くてほぼ真水のようでした。潟端の辺りは、大野川から流れ込んでくる塩水と、津幡川や山手の方から流れ込んでくる真水がぶつかる所で、ボラ、ウナギ、ハネ(スズキ)、ゴリ、サヨリ、ライギョ、アマサギ(ワカサギ)、ウグイ、フナ、ナマズ、メダカなど、海の魚も淡水にいる魚もみられました。
 河北潟の東岸は水深が浅くて、岸から100m以上先まで50cmほどしか水位差がなく、歩くことができました。その浅瀬には、ニラモ(アマモと思われる)や金魚藻のようなものとか、水面の上に葉が漂うのとか、色々な種類の水藻(水生植物)がたくさん生えていました。水藻が生えているのは岸から100~150mくらいまでで、その先は水深が急に深くなっていました。潟岸には葦場があり、その葦場の水際から10~30m先に、銭五の杭(銭屋五兵衛の埋め立て事業により作られた杭)がありました。銭五の杭は1mほどの間隔で、湖岸沿いにずっと続いており、杭の辺りはとくに水藻が茂っていました。夏場は水藻がよく繁茂し、そこに魚が潜んでいました。潟端の辺りの潟の東岸は魚が寄ってくる条件の良い場所だったようです。

潟端の漁
 米づくりが主体の潟端では、八田や内灘のような本格的な漁は行いませんでしたが、数名から二十数名が協力して行う小規模な漁がいくつかありました。なかでも「うがい」という漁は、浅瀬に寄りついた魚を巧みに捕る方法です。毎年、潟に生い茂った藻が切れる頃の8月の終わりに行われました。

第4話 稲架木が並ぶ潟端の風景

(通信かほくがたvol.13-4(2008年3月発行)掲載記事)

 河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。
 コンバインや乾燥機のない時代、稲刈りは手作業でおこなわれ、刈り取った稲は稲架木(ハサ木)に架けて乾燥させていました。耕地整理が行われる以前の潟端の田は、湿田でしたので、地干しができないことから、すべて稲架干ししました。
 旧盆の8月15日も過ぎると、そろそろ稲架作りの準備に取りかかります。まず、自分の稲架場に稲架木を立てる穴掘りから始めます。チサメ(チチャミ)という道具を使って、直径15cmほど、深さ40cm~45cmの穴を掘ります。約10間(約18m)の間に立てる場合、1列に10数個~20個ほどの穴を等間隔にあけます。穴の間隔は4尺くらいが平均でしたが、風当たりなど状況を考えて決めるのでそれぞれ違っていました。穴の間隔を狭くすると、強い風が吹いても倒れにくくなりますが、粘土質の土を掘って稲架木を立てるのは大変な労力です。穴掘りが終わると、稲架木を立てるために、「稲架積(はさによ)」から稲架木を舟に乗せて運びます。稲架積とは、使い終えた稲架木を積み置きしている場所のことをいい、多くは川端にありました。舟で運んだ稲架木を穴に立て、隙間を泥で埋めて、足で踏み固めます。両端に立てる2本の木は、縄を張ったときに力がかかりますので、太くて強い稲架木を選びました。
 稲架木を立てたら、いよいよ縄を張る作業にかかります。縄を張ったときに倒れないように、両端に立てた太めの稲架木を外側に引っ張るようにして、鉄線を張って杭に固定します。つぎに、どちらかの端の稲架木に縄をくくり付け、反対側の10間先まで縄を張って、端の稲架木に緩まないようにくくり付けます。つづけて20cmほど空けて上の段に縄をくくり付け、また端まで縄を張ります。そうして二段目、三段目と下から縄を張っていきます。一段目の縄の高さは1mほどで、ちょうど大人の腰骨あたりから、十段まで縄を張ると、稲架木の先が30cmほど残ります。縄は二人がかりで張り、5~6段目より上は「鞍掛(くらかけ)」という脚立を使って作業しました。
 稲架縄(はさなわ)を張り終わったら、稲架縄と稲架木が交差しているところを、一本一本別の細い縄(3分5里径)を使って男結びで締めていきます。そして、支柱を稲架木を挟むように斜めに差し込んで、縄でしっかり結ぶと完成します。最後の結び方は、通称「マタガケ(フンドシ)」と呼ばれ、これで支柱をとめることにより稲架木が揺れずに安定した状態になりました。
 稲架木に張る縄は三本縄で綯うたもので、8分(24mm径)以上の太いものです。普通は3分5里~4分なので、倍くらいの太さで重たいものでした。縄は切らずに使い、10~11段分で約250mもあります。稲架縄は普段はアマ(2階の物置)の風通しの良いところに保管し、5~6年は使いました。
 稲架作りの手法は受け継がれてきたもので、潟端では上記のようにつくられました。一列の長さは、稲架木が立てられる場所によっても違いますが、段数は大体10~11段で、段数がこれ以上多いと稲の乾きが悪くなり、また少ないと稲束が落ちやすくなります。稲架木の長さは2間ほど(4m前後)で、末口は直径6cmほどでしたが、人によって多少違っていました。稲架木に使われる木は、クリが多く、能登の三井町(現、輪島市三井町)まで買いに行きました。能登の木は真っ直ぐで、数がたくさんあり、潟端ではたいてい能登の木が使われていました。購入した木は仲買人により、貨物列車で津幡駅まで運ばれ、駅から部落までは荷車で運びました。木は半年間ほど川の水に浸けて、樹皮をむいてから使用しました。
 潟端には樹木がほとんど無いこともあり、材木を組み立てて縄を張るタイプの稲架場がほとんどでした。でも、舟の通る川沿いのいくつかの場所に、立木を利用した稲架場がありました。立木の稲架場は、秋に縄を張るだけでできます。坂野さんの家にも「太郎フゴ」の田んぼの二ヵ所にありました。小学校に行くときに通る表道(おもてみち)の南側にもハンノキの稲架木が3ヵ所ほどありました。ここは真冬に吹雪で雪の原になったとき、ハンノキの立木が雪原の上に出るので、道の目印になり、雪で埋まった用水路へ落ちずに済むので助かりました。
 立木は川沿いに一列に並んでいますが、枝があると舟の通行の邪魔になるので、下枝はすべて切り落とし、また上の枝も伸びすぎると、風が強いので倒れることから、常に剪定されていました。その切った枝は薪にするなど燃料として利用していました。樹種はハンノキとダゴノキ(トネリコ?)がありました。
 稲架場は、立木も組み立て式のタイプも、集落に寄ったところにあり、潟の近くにはありませんでした。たいていは自分の田の端の川端につくられ、稲架木を立てる場所がない人は、地主さんに米(大体5合から一升)を渡して、土地を借りていました。

 第一回目の耕地整理の後、幅10間の広い田んぼができてからは、川沿いにびっしりと稲架木が立ち並ぶようになりました。立ち並んだ稲架木に、黄金色の稲束が架けられた風景は美事でした。
 しかしやがて、コンバインが使われるようになって、乾燥機が登場し、状況は変わってきました。乾燥機が出始めた頃は、急に熱を加えるので胴割れ米となり、評判が悪くて稲架木は必要とされていましたが、その後段々と稲架木はなくなっていき、第二回目の耕地整理の後、舟が使用できなくなると同時に見られなくなりました。

第3話 潟端の暮らしを支えた道

(通信かほくがたvol.13-3(2008年2月発行)掲載記事)

 「越路の野山ひた走る 鉄路分れて能登に入る 岐に近きこの里に 建り我らが学舎は・・。」、この詩は中條小学校の校歌の一節です。潟端のある中條村には、山麓を鉄道が走り、北陸本線と七尾線の分岐駅(津幡駅)があります。そして駅から250mほど西に下った北国街道沿いに小学校がありました。
 当時、荷物の輸送には鉄道の貨物列車が主体で、その荷物を扱う会社がどの駅にもありました。津幡駅ではトラック一台ですべての集荷・配達業務が行われていました。トラックは駅から街道を通って、各地へ走りました。
 街道は、トラック、バス、オート三輪のほか、荷車や馬車、自転車も行き来しました。自動車は1時間に2~3台ほどしか通らず、エンジン音が騒がしく響くので、1kmほど離れた田んぼにいてもわかりました。また、高い建造物がなかったので、山裾を走る列車も田んぼからよく見えました。いつも11時30分頃になると金沢方面から、50車両ほど数えられる長い貨物列車が、黒煙をあげる機関車に引かれて、津幡駅に向かいました。これを見て、農家の女たちは昼飯の用意に家路に急いだものでした。

 北国街道(南中條の部落の南端)から潟端の部落の中央までの道は、車が通れました。路肩の両側が石垣で積まれた巾2間(約3m60cm)の立派な砂利道でした。この道は、大正2年(1913年)に、加賀神社(もとは諏訪神社)が県社加賀神社になったときに、神社が数10m道側に新築され、神社までの細道が拡げられてできたそうです。通称「表道」と呼ばれ、毎年6月と10月の祭礼日には子供御輿や獅子舞がでて賑わいます。加賀神社より西は、細い砂利道でしたが、戦後に中条校下で消防自動車が購入されたときに、部落の奧まで車が入れるようにと道幅が拡げられました。
 また、この道の部落東端から街道に出るまでは、周りが田んぼで、戦時中にできた工場が一軒あるだけでしたが、道沿いに河原市用水の分水流がありました。生きものが豊富で、小学校の帰りに道草をする大事な場所でした。川底が砂質で歩きやすく、水も綺麗でした。水藻が所々に生え、暖かくなると川魚がたくさん泳いでいるのが見えました。春先にハリゴ(イトヨ)という針の棘を持った銀色の川魚をつかまえた子もいました。ウグイ、フナ、モロコ、ドジョウ、ゴリ(ヨシノボリ?)、グズ(ドンコ?)、ナマズの子、6月以降は川魚はなんでもいました。そのほかシジミ貝、サワガニ、泥蟹(モクズガニ)、エビ類、蛙、トンボやホタルの幼虫、ゲンゴロウ、ミズスマシなど。川は左岸側は急傾斜の土手でしたが、道側(右岸側)は石垣の護岸で、石垣の上の方には時々ヘビもいました。ヘビをつかまえて、女の子にいたずらする腕白大将もいたようです。

 部落の西側はもっぱら田んぼで、潟まで1kmほどあります。部落の西端から、南には七ツ屋につながる巾1~1.5mの道が、反対の北側には三昧川の川端に川尻につながる道がありました。いずれもその部落に行くときの近道で、日中の明るい時に通りました。泥が踏み固まった道で、裸足で走っても安全でした。
 太田川と荒川の川端は、潟へ出るときの道でした。農作業の時にもよく人が通るので、草が生えず、常に歩きやすい状態でした。田んぼの間の泥積みの畦も歩くことがありました。細長い田んぼや、まるい田んぼなどいろいろで、畦に縁取られ、複雑な模様をつくっていました。

 学校や町に出るときは下駄や草履、長靴を履いていましたが、田んぼ道は裸足がふつうでした。農作業のときなど重たい物を運ぶときは、舟が役立ちましたが、川が通じていない場所では「もっこ」を使いました。網状に編んだ縄の四隅に吊り綱を2本付けたものを、頑丈なもっこ棒に通し、前後2人で担いで運ぶものです。子供と大人で力の差があっても、つり下げる位置を変えることで上手く運ぶことができ、細道での運搬に適した有り難い道具でした。田植えの頃は、天秤棒で苗代田から苗を運びました。200束ほどの苗を詰めた苗籠を、天秤棒の両端に吊して肩に担ぎ、しなる天秤棒に歩調をあわせながら、1kmくらいは休むことなく歩くものでした。内灘の人が舟で渡ってきて、イワシなど新鮮な魚を天秤棒で担いで、荒川の岸辺から部落の方まで売りに来てくれることもありました。また、自転車は最高の機動力でした。お医者さんは、歩けない病人の家まで、自転車で往診に来てくださいました。出産の時も、町から産婆さんが三輪車で来ていました。救急車や消防車がなかった頃は、歩けない病人は荷車にのって、人力で運ばれていました。

 田んぼ道を行き来するのは人だけでなく、牛や馬もいました。牛馬がかろうじて歩ける道幅なので、路肩がしばしば崩れました。馬は泥にはまると、あばれて脚を折ってしまうので注意が必要でした。路肩が崩れたときには修繕し、ハサ木を抜いたあとの穴には藁を詰め込むなどして、歩きやすい道をつくっていました。部落の東側に馬渡とよばれる場所がありましたが、そこは川の底質が砂地で固く、馬の蹄が沈みませんでした。川を渡らせたり、牛や馬の汚れを荒洗いする都合の良いところでした。牛馬は農耕用に使われましたが、その歴史は浅いようです。潟端では農期になると山から共同で借りてきましたが、いろいろと面倒がかかることもあり、とくに馬を借りるグループは少数でした。農業機械が普及するとともに牛馬の姿は見られなくなりました。
  道はすべて砂利や泥土で、崩れやすいものでしたが、壊れた状態で放置されることはありませんでした。歪んでいたり、凸凹した場所を、巧みに整える人もいました。

 昭和22年からの農地改革を経て、潟端では昭和27~30年頃と、昭和41年(1966年)からの大きく2回に渡って耕地整理がおこなわれました。部落の中央を流れる前川には、舟が置かれていましたが、2回目の耕地整理のときに暗渠化され、道は拡幅してアスファルト道路ができました。舟は使われなくなり、車の時代へと変わりはじめました。
  昭和28年12月に免許を取得した高橋喜久雄さんは、部落ではじめて貨物自動車マツダオート三輪を購入されて、薪や炭、材木、米を運ぶなど、雑用を請け負う仕事を始めました。小回りが利いて物を容易に運べるオート三輪は人気がありました。それは画期的な出来事で、時代が大きく変わることを、その頃強く感じていました。

第2話 潟端の暮らしとともにあった舟

(通信かほくがたvol.13-2(2007年10月発行)掲載記事)

 舟は、水郷潟端の暮らしとともにありました。秋の収穫期は最もよく使われ、何艘もの舟が行き来しました。稲を干す場所をつくるのにも、収穫した稲束を家まで運ぶときにも舟が必要となります。川端に置いている数十本の稲架木を、舟で運んで組み立てる作業は、一週間ほどかかる大仕事でした。春先には田んぼを客土するために、川の泥を舟に入れて運びました。また、夏の日照り時に田んぼに水を入れる水車(踏車)を運んだり、川端の畑で収穫した野菜をのせて運ぶこともありました。魚を捕りに舟を出したり、物々交換に内灘まで行くのも舟でした。舟は、いまの車や一輪車のような役割を果たしていました。
 舟道である川は大切にされ、毎年5月からお盆くらいまでに2~3回、川の藻や泥をとりあげました。お盆を過ぎてからも1回おこないましたが、これは稲刈りのときの舟の運航を妨げないようにするためでした。

 舟は幼い頃から乗る練習をするので、子どもらはみんな使いこなしていました。舟を漕ぐのにも技がいるもので、下手に漕ぐと、舟と舟があたったり、長い棹があたって音がします。車の少ない静かな時代で、舟をたたいて遠くにいる人に合図することもありましたから、下手に漕ぐと注目を浴びることになりました。そのため静かに舟を漕げるよう、皆よく特訓していました。夜舟を漕ぐ音は、とくに響き渡り、音をさせると家の中にまで聞こえました。夜に舟が出ると、その音で誰がでていったか大体見当がつくほどでした。

 潟端では、八田や内灘のような本格的な漁はほとんどおこなわれず、生活の糧は米づくりにありました。そのため潟端の舟は、稲を運ぶための大きな舟でした。漁をするための八田の舟は棹で漕いでも、スーッと前へ進みますが、潟端の舟は歩く速度より遅いくらいで、ゆっくりと進みます。潟端の舟は総長4間3尺ほど(約8m)でしたが、八田の漁舟は1丈9尺8寸ほど(約6m)と潟端の舟より小さく、海に出るタイプの内灘の舟は最も短くて幅がありました。舟の長さや縁の高さ、反り具合は用途に合わせてできているもので、潟端の舟で日本海に出たら忽ち沈没してしまいます。また稲を運ぶ舟でも、大浦や木越の舟は潟端とよく似ていましたが、川尻の舟はより長く、たくさんの稲を積むことができました。川尻には津幡川など深くて大きな川があり、大きい舟の運航が可能でした。河北潟の舟といっても、地域の条件に適した舟がそれぞれ存在していました。
 下の絵は潟端の舟と、舟を漕ぐ道具の棹と櫓、櫂です。むかしから「櫂は三年、櫓は三月」といわれ、それぐらい日数を持たないと使いこなせないものでした。櫓と櫂は樫の木でできているので非常に重たく、潟で落としたらすぐに拾い上げなければ取れなくなりました。櫓は櫓杭に乗せて使うことができますが、櫂は舟の端の櫂穴に縄で結んで漕ぐので、操るのが難しく、体力もいりました。棹は破竹棹で軽いですが、これも使いこなすのに三月くらいかかりました。破竹棹のハチクは、山へ行って良いハチクを自分で選び、地主から買い取って家へ持ち帰りました。3~4kmも歩いて持ち帰るので、持ち運べる分量の4~5本を買いました。ハチクは細くて長いので棹に適し、重宝しました。櫓や櫂は、水深1m以上の深いところに出たときに使うもので、通常は棹で舟を動かします。棹は竹が割れると、水が入って使えなくなるので、舟を止めたときは小まめに日陰に置くなどして、大切に使いました。また、内灘の人が使う海に出るタイプの舟には舵がつけてありました。ただ、潟端の舟でも、潟を横切って内灘まで行くようなときには、帆柱を立てて帆をあげることがあり、そのときは櫓を舵のかわりに使いました。

 稲を運ぶ舟で漁をおこなうことは難しいので、本格的に漁をする人は八田に行き、使い古された中古品の舟を買っていました。そのため漁をする家には、稲を運ぶ舟と漁をする舟の2つのタイプがありました。昭和23年の潟端の部落92軒には、80隻の舟がありましたが、八田の舟を持っている家は4,5軒でした。漁用の舟は多少ひび割れても大丈夫ですが、潟端の舟は乾いた稲を運ぶので、ひびが入らないよう注意しました。雨風をしのげる舟小屋は地主のような人しか持つことができず、潟端の部落には4軒くらいしかありませんでした。たいていの舟は家の前の川に横付けして置かれ、杭に縄でつないでいました。川に置けない舟は、空き地に置かれました。舟には薦(藁で編んだもの)をかけて、日除けしていました。

第1話 水郷、潟端を流れる川とフゴ

(通信かほくがたvol.13-1(2007年8月発行)掲載記事)

潟端について
 潟端は、もともとは浅田、北中條、南中條、太田、潟端の5つの部落からなる旧中條村(ちゅうじょうむら)にありました。この5つの部落の中で潟端以外は、丘陵地の裾野の少し高い位置にあることから、半乾田や畑がおもにつくられていました。潟端は河北潟にもっとも近い低地で、部落の周り一帯が半湿田と湿田でした。泥地で裏作ができないことから、潟端の人たちは米づくりに専念していました。
米づくりに適した立地の潟端は、歴史的には新しくできた部落です。延宝元年(1673年)の河北潟縁開発によりできた新村で、潟端新村と呼ばれていました。加賀の5代藩主前田綱紀公が潟端に鷹狩りに来たときに、この河北潟に近い沼地を見て、ここを開墾して一村をつくろうと計画したのがはじまりといわれています。

田んぼと川
 家々と潟と田んぼをつなぐように、川(水路)がいくつも流れていました。津幡川から水を引いている川尻用水路は、最も高い位置にあり、山側の高台から潟に向かっては、排水のための川が7本流れていました。太田川と中條川は、排水路として利用されるとともに、その水がポンプでくみ上げられ、春から夏の間の用水としても利用されていました。
 二百十日(9月1日)を迎えてから、稲の刈り取りが始まり、川の両側に稲架場がつくられました。ハザ干しした稲は、各家にある取入舟に積まれ、部落の真ん中を流れる「前川」を通って家の前まで運ばれました。稲を積み込んだ荷舟が午後から夕方まで行き来し、水郷ならではの豊かな風景がひろがっていました。
 川(水路)や田んぼにはすべて名前があり、細かい名前が生活の中で役立ちました。誰かが怪我をしたときや、魚がどこで捕れたかなど、すぐに場所を伝達することができるのです。終戦後の土地改良事業で水田がいまの形に整備されたときに、多くは使われなくなり、水路の名称は番号のみが残されました。昭和5年の地図を参考にして、坂野さんの記憶に残る28本の川の名前を図に記しました。川の名前は村ごとに異なり、たとえば中條川(ちゅうじょうかわ)は、隣の井上村では「十二号の川」と呼ばれるなど、村の境界を流れる川には2つの名前がありました。

フゴ
 部落の北側と南側にはフゴ(ふだんはやや乾いた湿地で、大雨が降って増水したときに小さな湖沼になるところ。)と呼ばれる場所がありました。フゴにある田んぼは冠水することが多く、泥深いところでは人が入ると30センチくらい沈むため、農作業の労力が2倍半ほどかかりました。フゴといっても場所によって土質が異なっていて、一番北側にある「太郎フゴ」は粘土質で泥深く、少し乾くと亀裂が入り、雨が降るとつるつるに滑りやすくて危険でした。真ん中の「中條フゴ」は砂混じりで、それほど泥深くなく、膝の半分程度が沈むほどでした。南側の「太田フゴ」は腐葉土の堆積した泥で、ここも30センチくらいの深さまで沈みました。フゴの場所は浅い鉢状に下がっており、雨が降るとすぐ水浸しになります。田んぼに一週間以上も水が溜まってしまうと、稲が腐るところもありました。フゴでの米づくりは苦労が絶えないものでしたが、日照りのつづいた年などには、フゴの田んぼが大豊作となりました。

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